生涯とは

死ぬ時に、ああ、私にはもっと別の人生があった筈なのに、と自分の生涯を後悔しなければならない程不幸な事があるだろうか、と今まで私は思い続け、それで死ぬのも怖れ続けていた。でもこうした後悔は随分傲慢な思いなのかもしれない。――始まりがあれば、終りがある。死とはそうしたもの。(「火の山ー山猿記」(津島佑子)より)

「太陽の心」を育む祈り

「太陽の心」とはいかなるものでしょうか。「太陽」は、「自らを与えるもの」の象徴です。
「太陽」は、生きとし生けるものを守り育てる熱や光を、無償で平等に与え続けています。
一人ひとりの内なる「太陽」を想ってください。自らの快苦や好悪、損得、正邪、善悪などによって差別することなく、あらゆる人や生命を照らすのです。寒い冬にとって、暖かい「太陽」の熱は生きる力であり、暗い闇にとっては、明るい「太陽」の光は希望にほかなりません。「太陽」のように「自らを与える心」を目ざめさせ、その尽きることのない愛の心に倣って、あらゆる人々の手足となって心を尽くすとき、私たちは与えるだけでなく、自らもこの上ない魂の歓びを与えられることになります。一人ひとりの内なる太陽を想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは自らを与える生き方に憧れます。他のことを想うわたくしを引き出してください。
他のために生きることをわたくしの歓びにさせてください。
わたくしは、「太陽」のごとき愛の心を育みます。自らを捨て、心を尽くして、あらゆる人々の幸せを願うことができますように。わたくしの内なる「太陽」の心を導いてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「海の心」を育む祈り

「海の心」とは、あらゆる個性を包容して、全体を一つに結ぶことのできる広き心の菩提心。無数の河の流れがあらゆるものを運んで注いでいる「海」を想像してください。「海」は、そこに注ぐ数え切れない河の流れを一つに結ぶ受容の力の象徴です。谷や野を駆け巡ってきた無数の河は、様々なものを運んで「海」に押し流してゆきます。それらを受け入れて一つに結んでいるのが「海」。様々な違いのすべてを受け入れ、浄化し、一つの生命の中に再生させてゆくのが「海の心」。私たち人間の世界にも「海の心」が必要です。一人ひとりの生活の中にも「海の心」が求められています。この世界はあまりにも違いに満ちその違いに人々が心を奪われているからです。違いが違和感を引き出し、差別や憎しみの基となっているからです。私たちが同じ人間であり、同じ魂の存在であったとしても、この世界に生まれることによって、その共通部分を人は忘れてしまうものです。人生の条件とは、違いに満ちているもの。両親を通じて流れ込む、ものの見方・価値観という「血」生まれ育った地域や土地から流れ込む、習慣や価値という「地」時代・社会から流れ込む、知識や思想・価値観という「知」。自分と他人の三つの「ち」(血地知)が違うことに、人はどれほどの違和感を覚えてきたでしょう。そしてその違和感を、どれほどの反感や憎しみに変えてしまってきたでしょう。しかし、もし、その違いを包容する「海の心」を抱くことができるなら私たちは互いが同じ人間であり、同じ魂であることを思い出すことができるのです。
あなたがもし、受け入れ難いものを抱えているなら、広き海原を想ってください。誰かに反感を覚えているなら
すべてを受容する「海」にあなたの心を重ね合わせてください。人は誰も自身の内に始源の「海」を抱いているのです。
(祈りの言葉)
潮の流れのごとき静かな時を心に蘇らせてください。潮の満ち引きのごとき穏やかな呼吸を取り戻させてください。わたくしは「海」から生まれた生命であり、「海」に還ってゆくものであることを思い出させてください。わたくしは、「海」のごとき広き心を育みます。あらゆる個性を包容して、全体を一つに結ぶことができますように。どうか、限りない受容の力を引き出してください。どうか、限りない包容の力をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「風の心」を育む祈り

「風の心」とは、いかなるものでしょうか。
「風」は遠くから、何かを運んでくるものです。澱んだ大気の谷に、一陣の「風」が吹き抜けるとき、清新な空気が流れ込んで気配がまったく変わってしまいます。
我見にとらわれ、我意に固執するとき、場は閉塞し空気は澱んでいます。「風」はそこに窓を穿つ力です。停滞した事態、硬直した心に、「風」が吹くとき、それらを一変させる智慧と光が流れ入るのです。閉塞した空気が流動を始め、光転の循環を起こしてゆくのです。
「風の心」とは、誰の心にも我意を超えた願いを蘇らせる、颯爽とした「風」のような無垢な心の菩提心。根源の光、始源の智慧、中心の願いを蘇らせる「風」のことを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、いつも思い続けます。「風」起こる深淵を、光生まれる混沌を、いのち孕まれる根源を。どうか、そこに遡らせてください。それらを呼び覚ましてください。
わたくしは「風」のごとき颯爽とした心を育みます。我意を越えた切なる願いを自他の心に起こすことができますように。「風」のように歩ませてください。「風」のように生きさせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「観音の心」を育む祈り

「観音」とは、この世界にあって苦しみ悩む人々の声(音)を自在に観ずる菩薩です。
衆生が様々な悩みや苦しみに遭遇したとき、「観音」の名を一心に唱えれば、その声をすべて聴き届け、衆生の七難を救うために種々の姿を現し、一人残らず救済してくれる存在です。「観音」は、慈悲心溢れる、衆生救済の力の象徴なのです。慈悲心の「慈」とは、相手を包み込み慈しむ温かな心。「悲」とは、相手の悲しみや苦しみを全身全霊で受けとめて、共に悲しみ、それを癒そうとする心、「抜苦与楽」の心です。
すなわち、「観音の心」とは、相手の苦しみを全身全霊で受けとめ、その痛みを取り除こうとする慈悲の心の菩提心。そのことをしるならばか「観音の心」とは、どれほど、遙けき場所に位置するものだろうかと思わずにはいられません。有余(道半ば)の菩薩として、煩悩を抱え、闇を抱えて歩む私たちにとって、その心はあまりに遠く離れているもののように思えます。しかし、またそれほど遙が遠くに見え隠れする「観音の心」を求め、それを目ざして歩むことにこそ大きな意味があり、それを願って歩む道心を抱くことができるのが私たち人間であるということなのではないでしょうか。私たち一人ひとりの内なる「観音の心」を念じてください。
(祈りの言葉)
どうか、共に生きる人々の苦しみをわが苦しみとさせてください。共に生きる人々の歓びをわが歓びとさせてください。世界に響く苦悩の声を受けとめたいのです。世界に流れる悲しみの涙を受けとめたいのです。わたくしにできることに心を尽くさせてください。
わたくしは「観音」のごとき慈悲の心を育みます。人々の苦しみを引き受けその仏性を守るために。どうぞわたくしの内なる慈悲心をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「大地の心」を育む祈り

「大地の心」とは、いかなるものでしょうか。
「大地」は豊かな恵みを生み出す母胎です。多様な生命を懐に抱え、育み、生かしています。そして、少しの搾取もなく、差別もなく、あらゆる生命を育んで、恵みと富を生産するものです。人がいかなる豊かさを産み出そうとも、「大地」の豊かさには遠く及びません。
無から有を生ずるがごとく、「大地」は繰り返し尽きることなく、恵みをもたらし続けるのです。「大地の心」とは、大地のごとく、あらゆる存在を育み、その可能性を開花させることができる、子を育てる「親の心」の菩提心です。「親の心」とは、自分のことを横に置いても、子を愛し育み、助け支えようとする心。人を見たらその可能性を想い、どうしたらそれを引き出せるのかと考えてしまう心。育み、引き出す願いを抱いた、あなたの内なる「大地」のことを想ってください。
(祈りの言葉)
いのちの営みの母胎、人間の営みを支える「大地」をわたくしは今日も踏みしめました。
この「大地」から生まれ、この「大地」に支えられてきたわたくしであることを思います。
その恩義に応えさせてください。
「大地」のごとき豊かな心を育みます。あらゆる存在の可能性を引き出すことができますように。
どうか、あらゆる存在が輝く「縁」としてわたくしをはたらかせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「川の心」を育む祈り

「川の心」とはいかなる心でしょうか。「川」は一時としてとどまることなく流れ続け、一切のものを押し流し、様々な汚れを洗い流すものです。そして、流れることで、「川」は、自らも清浄であり続けます。弛みない「川」の流れは、私たちの心を洗い、想いを浄化させます。「川」の流れを見ているだけで、こだわりやとらわれを解きほぐし、そこから離れることができます。背負っている重荷を肩から下ろして、心を休めることができます。それはその重荷は決して固定的なものではなく、新しい時が来ることを教えてくれるからです。「川」の流れは、やがて訪れる希望の未来を示してくれるのです。「川の心」とは、一切のとらわれやこだわりを洗い流すことができる、清らかな心の菩提心です。怒り、謗り、妬み、恨み、僻み、傲慢、欺瞞、疑念、愚痴、怠惰、…。これら一切を洗い流し、自由な魂を導くもの。一時としてとどまるもののない、この諸行無常の世界に生きる私たちには「川の心」がもとより託されているのです。あなたの内なる「川」の浄化の力、変化の力を信じてください。
(祈りの言葉)
わたくしは川のごとき清らかな心を育みます。一切のとらわれやこだわりを洗い流すことができるように、まったく自由なわたくしをあらわしてください。
一から始めることができるように、透明になることができるように、わたくしに新たないのちを与えてください。新たな光を注いでください。

六観法(人物鑑定法)

その人物が忠実にして、公正で信頼に足る人物かどうかを観る人物鑑定法として
「貞観政要」に次のような記述がある。
1 貴ければ則ち其の挙ぐる所を観(人の上に立って、どのような人物を登用するか)
2 富みては則ち其の与ふる所を観(裕福になって、どのようにお金を使うか)
3 居りては則ち其の好む所を観(余暇において、どのようなことをしているか)
4 学べば則ち其の言ふ所を観(知識人となって、どのような発言をしているか)
5 窮すれば則ち其の受けざる所を観(貧窮したときに、悪銭を受けないか)
6 賎しければ則ち其の為さざる所を観(卑しい地位に在って、道に外れていないか)

※貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢(ごきょう)が編纂したとされる太宗(唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。)の言行録である。
題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。

「泉の心」を育む祈り

「泉の心」とはいかなるものでしょうか。「泉」は、澄み切った清らかなみずを、たゆみなく滔々と溢れさせるものです。その水は生命の水。いのちを潤し、渇きを癒すもの。忍土の中で、傷つき疲れた人々の心を癒し、励まし、力を与えるもの。そしてその水は智慧の水。解決と創造をもたらすもの。至るところにあらわれる困難な壁を超えて、一すじの白い道(最善の道)を切り開く智慧をもたらし続けるもの。その力の象徴が「泉」です。「泉の心」とは、道なきところに道を切り開き、不可能を可能にさせることができる、智慧の心の菩提心。忘れてはならないことがあります。「泉」がくみ上げるのは、地下水流であるということ。それは、長い時をかけて自然が浄化し、蓄積した見えない流れ。幾多の魂が、自らの浄化とともにまごころを尽くし続けたからこそ豊かで澄み切った水が尽きることなく溢れ続けるのです。あなたの内なる「泉」を見出すために、自らの井戸を掘り下げてください。その井戸を掘り進めて地下水流に突き当たったとき、必ず尽きることのない智慧があなたの「泉」から溢れてくることを信じてください。
(祈りの言葉)
魂が抱く智慧は限りないものです。どうぞ、その真実をわたくしに知らしめてください。
わたくしは、「泉」のごとき智慧の心を育みます。
道なきところに道を切り開き、不可能を可能に変えることができますように。
弛むことなく、あきらめることなく、とどまることなく、歩み続ける力を与えてください。
どうぞ、わたくしの内なる「泉」に光を注いでください。
その「泉」が滔々と尽きない智慧をあらわしますように。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「稲穂の心」を育む祈り

「稲穂の心」とは、実るほどに頭を垂れる、黄金の「稲穂」のごとき、感謝の心の菩提心です。
いつの時代にも、人は、自然が示す姿に、深い人生の真実を学んできました。実りの季節。手塩にかけた作物が実り、収穫を迎えるとき。黄金色に輝く「稲穂」が、たわわな実りをつけて頭を垂れる姿に私たちは、「感謝」の心を重ね合わせてきました。
自然の恵みが自らを育んでくれたことを知るかのように頭を垂れる「稲穂」の姿は、恩恵を受けとめる姿勢そのものです。そしてそれは、私たち自身を、あらゆる機会を通じて、人として、魂として、育まれている事実を思い出させる「恩恵の自覚」へと誘います。
その「恩恵」に目ざめるとき、私たちは、人生に与えられる一つ一つの出会い、出来事が自らの快苦・好悪・利害・善悪で判断されるだけのものでなく、大切な意味が孕まれているものであることを受けとめるようになるのです。
「稲穂の心」が知る「恩恵の自覚」の深みを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは生かされて生きる存在であることを胸に刻みます。
わたくしが前に進むことができたとしたらそれはわたくしを支えてくれた人がいたからです。
わたくしが多くを獲得できたとしたらそれはわたくしを助けてくれた人がいたからです。
わたくしが自ら成長することができたとしたらそれはわたくしを見守り導いてくれた存在があったからです。だからこそわたくしは一切の出会いに感謝できる心を育みます。
実るほどに頭を垂れる黄金の「稲穂」のごとく…。すべての出会いと出来事の豊かな意味を受けとめさせてください。そしてその一切を、大切に、大切に味わわせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より