相続とは

相続とは、死亡した人(「被相続人」といいます)が所有していた財産上の権利義務を一定の身分関係にある人(「相続人」といいます)に承継することです。相続は、通常、死亡によって開始します(特殊なケースとして、失踪宣告がされた場合も相続は開始します)。
(1) 自然的死亡
自然的死亡とは、老衰、病気、事故等により現実に死亡という事実が生じた場合をいい、その具体的な時期は、通常、医師が死亡診断書または死体検案書に記載した「死亡の年月日時分」となります。相続人等の利害関係人において死亡の事実を了知した日、死亡の届出日、死亡した旨が戸籍簿に記載された日のいずれでもありません。
(2) 失踪宣告
失踪宣告とは、不在者につき,その生死が7年間明らかでないとき(普通失踪),又は戦争、船舶の沈没、震災などの死亡の原因となる危難に遭遇しその危難が去った後その生死が1年間明らかでないとき(危難失踪)、家庭裁判所への申立てにより、生死不明の者に対して,法律上死亡したものとみなす効果を生じさせる制度です。
(3) 認定死亡
認定死亡とは、水難、火災その他の事変によって、死亡したのは確実であるが、遺体が見つからない等の場合に、その取調べにあたった官公署が死亡の認定をして、戸籍上一応死亡として扱います(戸籍法第89条、第91条)。

 

仕事とは

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々しもじもの者より見れば及ぶべからざるようなれども、そのもとを尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。ことわざにいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。
福沢諭吉「学問のすすめ」より

「空の心」を育む祈り

「空の心」とは、何ごとにもとらわれず、無心に生きる自由な心の菩提心。
「空」を見上げてください。それが叶わないなら、心の中に「空」を想ってください。
「空」は限りない広がりを抱くものです。
どこまでも妨げるものがなく、どこまでも高く、すべてを超えて広がりゆくもの。
現在の中に生きている私たちは心をどこかにとどめ何かに固着させがちです。
区分けし、限定して考えることを常としています。
上手く区切ることのできる人が優れた能力の持ち主であると考えられたりします。
左と右に分け上と下を分ける力世界の一画に自分の場所を区切ることのできる力を人間の力量として見るということです。
人の心もその区分けに翻弄され、こだわります。
こだわっているとき、往々にして、その外に広がっている世界は見えなくなります。
ただその区分けにとらわれ、人生の一大事と思ってしまうのです。
「空」は、そんな人間の世界のすべてを超えて広がってゆきます。
区分けに必死な人間の意識の底を抜いてそれを超える広がりを私たちに見せてくれるのです。
その広がりが本当のいのちを呼びかけているのです。
どこまでも自由無碍に広がる「空」に、いつも、あなたの心を重ね合わせてください。

(祈りの言葉)
自らがつくり出しているこだわりと差別に訣別するために「空」の広がりを感じさせてください。
「空」の自由さを味わわせてください。
何の障害もなく澄みきった大空にわたくしを托身させてください。
わたくしは大空をはばたくことを願っています。
おおらかで自由なわたくし自身を取り戻したいのです。
わたくしは、「空」のごとき自由無碍な心を育みます。
何ごとにもとらわれず、無心に生きることができるようにわたくしを導いてください。

「祈りのみち」(高橋佳子著)より

孟子の名文 2

其の道を尽して死する者は正(せい)命(めい)なり。桎梏(しっこく)(人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの)して死する者は、正命に非ざるなり。
☞「三命説」(命(運命)に①受命・正命(持って生まれた運命)と随命(行為の善悪に対して禍福が正しく表れる)と遭命(善事を行いながら不幸に遭遇)があるとする説)

孟子の名文 1

其の心を尽す者は、其の性を知る。其の性を知れば、則ち天を知る。
其の心を存し、其の性を養ふは、天に事(つか)ふる所以(ゆえん)なり。
殀寿(ようじゅ)貳(たが)はず、身(み)を修(おさ)めて以て(も)之を俟(ま)つは、命を立つる所以なり。
☞「四端の心」
惻(そく) 隠(いん) 深く痛ましく思う(仁の端(めばえ))
羞(しゅ) 悪(うお) 己の不善を恥じ、人の不善を憎む(義の端)
辞(じ) 譲(じょう) 慎み深く譲る(礼の端)
是(ぜ) 非(ひ) 是を是として、正邪善悪の別(智の端)

まことの語法(五法)

まことの語法(五法)とは

誠 言動に偽りがない(言が成る)
実 事柄がしっかりして実がある
良 性が純で育ちが良い(素直)
真 真っ直ぐで繕いがない
信 人を欺かず約をはたす

為替差損益について

為替差損益は、原則的には異なる通貨の交換(往復)により発生します。例えば、円貨を外貨に交換し、その外貨を円貨に交換した時(円転した時)に、所得税法第36条の「収入すべき金額」が実現したと考えられますので、その実現した金額を為替差損益として雑所得の所得計算を行います。
したがって、購入した外国通貨をそのまま保有し続ける限りにおいては、為替差損益については未実現の評価損益に過ぎないものと考えられますので、所得として認識する必要はありません。また、外貨建預金として預け入れていた元本部分の金銭について、①同一の金融機関に、②同一の通貨で、③継続して預け入れる場合の預貯金の預け入れも、外貨建取引に該当しない(円換算しない)こととされていますので、その元本分部に係る為替差損益が所得として認識されることはありません(令167の6②)。(なお、実務的には、他の金融機関に預け入れる場合であっても、同一の外国通貨で行われる限り、令167の6②の預け入れに類するものとして、同様に扱われています。)
ただ、為替差損益は異なる通貨の交換(往復)の場合に発生するだけではなく、異なる通貨の交換(往復)以外にも、為替差損益が実現したと認識しなければならない場合があります(新たな経済的価値が外部から流入したことにより、それまでは評価差額にすぎなかった為替差損益に相当するものが、所得税法第36条の「収入すべき金額」として実現したこととなる場合)。
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四書の中の『大学』とは

「大学」は入徳の書として曽子(そうし)によって著されたものであり、四書(「論語」「大学」「中庸」「孟子」)五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)の最初に学ぶべきものとされている。
儒教の根本思想である「修(しゅう)己(こ)治人(ちしん)」とは、自分をより高い人間性を持つことに導いてゆき、それによって人にもより良い影響を与えて正しい人の道へ進ませることができるということをいう。

大学の三綱領(『大学』における大切な「三つの柱」)
(一) 明徳(めいとく)を明らかにする
(二) 民に親しむにあり
(三) 至善に止まるに在り

「八条目」(三綱領を実践してゆく手段方法)
大学の八条目はその実践工夫である。
格物、致知、誠意、正心で自らの身を修める工夫をして斉家、治国平天下はその修まった身を世に処して進退する道を説く。
(一) 自分自身を正す(格物)
(二) 自分自身を正すことによって自ら知が到る(致(ち)知(ち))
(三) 知が到ることによって意識感情が正常になる(誠意)
(四) 意が正常になると内なる心も正しくなる(正心)
(五) 心が正しくなると身がよく修まる(修身)
(六) 身が修まると家も斉うようになる(斉家)
(七) 家が斉うと、国も治まるようになる(治国)
(八) 国も治まると天下も平らかになっていく(平天下)

大学書き下し文
大学の道は、明徳(めいとく)(天から授かった特性)を明らかにするに在(あ)り、民を新(あら)たにするに在り、 至(し)善(ぜん)(最高の善)に止(とど)まるに在り。 止まるを知って后(のち)定(さだ)まるあり、定まって后(のち)よく静かに、静かにして后(のち)よく安く、 安くして后(のち)よく慮(おもんばか)り、慮りて后(のち)能(よ)く得(う)。 物に本末有り、事に終始有り。先後(せんご)する所(ところ)を知ればすなわち道に近し。 古(いにしえ)の明徳(めいとく)を天下に明らかにせんと欲する者は、まず其の国を治む。 其の国を治めんと欲する者は、先(ま)ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、まず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、まず其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、まず其の意(こころばせ)を誠(まこと)にす。其の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、まず其の知を致す。知を致すは物に格(いた)るに在り。物格って后(のち)知至る。 知至って后(のち)意(こころばせ)誠なり。 意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。 心正しくして后(のち)身修まる。 身修って后(のち)家斉(ととの)う。 家斉(ととの)いて后(のち)国治まる。 国治まって后(のち)天下平らかなり。 天子よりもって庶人に至るまで、壱(いつ)に是(これ)(一切)に皆身を修むるを以て本と為(な)す。 その本乱れて末(すえ)治まる者はあらず。 その厚くするところの者を薄くして、その薄くするところの者を厚きは、いまだこれあらざるなり。

先世の結縁

或(あるい)は一(いっ)国(こく)に生(うま)れ、或(あるい)は一郡(いちぐん)に住(す)み、或(あるい)は一県(いちけん)に処(お)り、或(あるい)は一村(いっそん)に処(お)り、一樹(いちじゅ)の下(もと)に宿(やど)り、一河(いちが)の流(ながれ)を汲(く)み、一夜(いちや)の同宿(どうしゅく)、一日(いちにち)の夫婦(ふうふ)、一所(いっしょ)の聴聞(ちょうもん)、暫時(ざんじ)の同道(どうどう)、半時(はんじ)の戯笑(げしょう)、一言(いちげん)の会釈(えしゃく)、一坐(いちざ)の飲酒(おんしゅ)、同杯(どうはい)同酒(どうしゅ)、
一時(いちじ)の同車(どうしゃ)、同畳同坐(どうじょうどうざ)、同牀一臥(どうしょういちが)、軽重(けいちょう)異(ことな)るあるも、親疏(しんそ)別(べつ)有(あ)るも、皆(みな)是(これ)れ先世(せんぜ)の結縁(けちえん)なり。
(聖徳太子「説法(せっぽう)明眼論(みょうげんろん)」)
(訳)
ある国に生まれ、ある地方に住み、ある県に住み、ある村に住み、同じ木の下での雨宿り、同じ河の水を使い、一夜の同宿、一日だけの夫婦関係、同じところで話を聴き、ほんの短い同伴、ちょっとした微笑み、何気ないご挨拶、宴席での飲酒、たまたまの同車、同席、同宿、これらのことは関係が深い、薄い、親しい、疎いと様々であるが、全て、生まれる前の前世の因縁が関係しているのです。

小學(小学)とは

『小學(小学)』は、187年に朱熹が劉子澄に編纂させた儒教的な初等教科書で、朱子学の基本となる書です。儒学では『四書』(『論語』・『孟子』・『大學』・『中庸』)と『六経』が重要な書となりますが、朱子学では、これに『小學』と『近思録』が加わります。
小學は年少者のための初級テキストとされましたが、その内容は古聖人の善行や箴言および人倫の実践的教訓などを集めた日常の礼儀作法や格言・善行を行うための啓蒙的なものです。
四書五経を学ぶ順序は、『小學』→『近思録』『大學』→『論語』→『孟子』→『中庸』→『六経』です。
小學は「内篇」と「外篇」があり、「内篇」は、立教、明倫、敬身、稽古の4篇からなり、主として原則的な修養の理や温故知新を説いています。「外篇」は、嘉言、善行の2嘉言からなり、古人の言行が書かれています。『小學』は、自己を治める修己として、子供教育に非常に優れた教育書、道徳書といえます。

【小學序】
古は小學、人を敎うるに灑掃・應對・進退の節、親を愛し、長を敬し、師を隆び、友に親しむの道を以てす。皆、脩身・齊家・治国・平天下の本と爲す所以にして、必ず其れをして講じて、之を幼穉の時に習わしむ。其の習い、知と長じ、化、心と成り、扞格して勝えざるの患い無からんことを欲するなり。今、其の全書は見る可からずと雖も、傳記に雜出する者亦多し。讀む者往往直古今の宜しきを異にするを以てして、之を行う莫し。殊に知らず、其の古今の異なること無き者は、固より未だ始より行う可からざるにはあらざるを。今、頗る蒐集して、以てこの書を爲し、之を憧蒙に授け、其の講習に資す。庶幾わくば風化の万一に補い有らんかと爾か云う。
淳煕丁未三月朔旦、晦菴題す
【小學題辭】
元亨利貞は天道の常、仁義禮智は人性の綱。凡そ此れ厥の初め不善有ること無く、藹然たる四端、感に隨いて見わる。親を愛し兄を敬し、君に忠に長に弟なる、是を秉彛と曰う。順うこと有りて彊うること無し。惟れ聖は性のままなる者、浩浩たる其の天、毫末をも加えずして萬善足る。衆人は蚩蚩、物欲交々蔽い、乃ち其の綱を頹して此の暴棄に安んず。惟れ聖斯に惻れみ、學を建て師を立て、以て其の根に培い、以て其の支を達す。小學の方は、灑掃應對、入りては孝、出でては恭、動くには悖ること或る罔く、行いて餘力有らば、詩を誦み書を讀み、詠歌し舞蹈して、思うには逾ゆること或る罔し。理を窮め身を脩むるは斯れ學の大、明命赫然として内外有ること罔し。德崇く業廣くして、乃ち其の初めに復る。昔足らざるに非ず、今豈餘有らんや。世遠く人亡せ、經殘われ敎え弛み、蒙養端しからず、長じて益々浮靡、郷に善俗無く、世に良材乏しく、利欲紛挐し、異言喧豗す。幸に茲の秉彛は極天墜つる罔し。爰に舊聞を輯め來裔を覺さんことを庶う。嗟嗟小子、敬みて此の書を受けよ。我が言の耄なるに匪ず。惟れ聖の謨なり。