「泉の心」を育む祈り

「泉の心」とはいかなるものでしょうか。「泉」は、澄み切った清らかなみずを、たゆみなく滔々と溢れさせるものです。その水は生命の水。いのちを潤し、渇きを癒すもの。忍土の中で、傷つき疲れた人々の心を癒し、励まし、力を与えるもの。そしてその水は智慧の水。解決と創造をもたらすもの。至るところにあらわれる困難な壁を超えて、一すじの白い道(最善の道)を切り開く智慧をもたらし続けるもの。その力の象徴が「泉」です。「泉の心」とは、道なきところに道を切り開き、不可能を可能にさせることができる、智慧の心の菩提心。忘れてはならないことがあります。「泉」がくみ上げるのは、地下水流であるということ。それは、長い時をかけて自然が浄化し、蓄積した見えない流れ。幾多の魂が、自らの浄化とともにまごころを尽くし続けたからこそ豊かで澄み切った水が尽きることなく溢れ続けるのです。あなたの内なる「泉」を見出すために、自らの井戸を掘り下げてください。その井戸を掘り進めて地下水流に突き当たったとき、必ず尽きることのない智慧があなたの「泉」から溢れてくることを信じてください。
(祈りの言葉)
魂が抱く智慧は限りないものです。どうぞ、その真実をわたくしに知らしめてください。
わたくしは、「泉」のごとき智慧の心を育みます。
道なきところに道を切り開き、不可能を可能に変えることができますように。
弛むことなく、あきらめることなく、とどまることなく、歩み続ける力を与えてください。
どうぞ、わたくしの内なる「泉」に光を注いでください。
その「泉」が滔々と尽きない智慧をあらわしますように。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「稲穂の心」を育む祈り

「稲穂の心」とは、実るほどに頭を垂れる、黄金の「稲穂」のごとき、感謝の心の菩提心です。
いつの時代にも、人は、自然が示す姿に、深い人生の真実を学んできました。実りの季節。手塩にかけた作物が実り、収穫を迎えるとき。黄金色に輝く「稲穂」が、たわわな実りをつけて頭を垂れる姿に私たちは、「感謝」の心を重ね合わせてきました。
自然の恵みが自らを育んでくれたことを知るかのように頭を垂れる「稲穂」の姿は、恩恵を受けとめる姿勢そのものです。そしてそれは、私たち自身を、あらゆる機会を通じて、人として、魂として、育まれている事実を思い出させる「恩恵の自覚」へと誘います。
その「恩恵」に目ざめるとき、私たちは、人生に与えられる一つ一つの出会い、出来事が自らの快苦・好悪・利害・善悪で判断されるだけのものでなく、大切な意味が孕まれているものであることを受けとめるようになるのです。
「稲穂の心」が知る「恩恵の自覚」の深みを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは生かされて生きる存在であることを胸に刻みます。
わたくしが前に進むことができたとしたらそれはわたくしを支えてくれた人がいたからです。
わたくしが多くを獲得できたとしたらそれはわたくしを助けてくれた人がいたからです。
わたくしが自ら成長することができたとしたらそれはわたくしを見守り導いてくれた存在があったからです。だからこそわたくしは一切の出会いに感謝できる心を育みます。
実るほどに頭を垂れる黄金の「稲穂」のごとく…。すべての出会いと出来事の豊かな意味を受けとめさせてください。そしてその一切を、大切に、大切に味わわせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「山の心」を育む祈り

この世界に生きる条件。すべてがとどまることなく移り変わり、崩壊に至る定を人は免れることができないということ。あらゆる事態が複雑な関わりゆえに、自分の思い通りにはならない定を抱くということ。
それらの定を負いながら生きる私たちは、誰一人例外なく、人生の中で、様々な苦難や試練にさらされます。突然の病や事故。人間関係の不和とあつれき。思いもかけない失敗や実績の低迷。期待はずれの結果や裏切り、約束の反故。互いを傷つけずにはおかない離反や別れ。予告なく襲いかかってくる人災や天災…。私たちの前で、無数の暗転の事態が今にも口を開けようとしています。だからこそ、私たちは苦難と試練を引き受ける「山の心」を求めるのです。「山の心」とは、いかなる苦難や試練にも揺らぐことがない、不動の心の菩提心。
「山」は不動の象徴です。長い時の流れの中にあって、どれほど厳しい風雪にも、どっしりと揺らぐことなく大地に身を構え続けてきた「山」。その「山」に倣って、何ごとが起ころうと揺らぐことなく、事態を受けとめたいと願うのです。すべてをじっと黙って受けとめてきた「山の心」を想ってください。「山の心」はただ動じない重い心なのではありません。一切の痛みと呼びかけを受けとめながら、決して重心を動かさない不動の心です。
(祈りの言葉)
わたくしに「山の心」を与えてください。わたくしは現実の重さをすべて受けとめたいのです。
呼びかけの深さをすべて知りたいのです。そのために、確かな重心を備えさせてください。
いかなる苦難や試練にも決して揺らぐことがない「山」のごとき安らぎの心を育ませてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「月の心」を育む祈り

「月」は自ら光を発するものではなく、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。それゆえ、「月」は、太陽のような存在だと見なされてきました。しかし、それだけではありません。「月」の光の静かさ。その透明さ。その光は何とやさしく、そして神秘的に降り注いでいることでしょう。「月」は自らが発光しないことを知っており、自らを鏡のようにして太陽の光を私たちに送ってくれます。それは回向返照。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす回向の営みそのものです。
神秘の気配に満ちた「月」の光は、私たち一人ひとりを世界の不思議、人生の不思議に誘ってくれます。私たちの心は、普段は見えないもの、隠れた側面に自然に導かれます。見えるものから見えないところで他のために尽くす陰徳の歩みへと私たちを誘うものです。見えないところで他を支え、見えないところで全体のために尽くす歩みの尊さに私たちを導いてゆくのです。
「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることができる。陰徳の心の菩提心。
その「月の心」があなたの内に息づいていることを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、見えるものだけでなく、見えないものを想う者になります。形だけでなく、形を支える次元を求める者になります。現れだけでなく、隠れたところで心を尽くす者になります。
どうか、その歩みを支えてください。わたくしは、「月」のごとき隠徳の心を育みます。忍土の闇をひそやかに照らし続けることができますように。わたくしの内なる「月の心」をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

劣等感に苛まれるとき

皆が自分より確かそうに見えるとき。自信のない自分を隠し切れないとき。他人と比較して、自分の足りなさや自分の不甲斐なさを嘆くとき。「あいつはいいよ、頭がいいから」、「あの人は何であんなに人から好かれるのかしら」、「私はどうせ駄目、何をやっても大したことはない」。ひがむ心、自己卑下する想いに苛まれて落ち込んでしまうことがあります。劣等感が頭をもたげてきて自分をへこませることがあります。けれども、よく考えてみましょう。劣等感だけを持つことはできません。劣等感と優越感とはコインの裏と表のようなものです。あなたはまずそのことをよく考えてください。劣等感を抱いている心は自分自身を見つめずにいつも、自分よりも優れていると思うものを見上げています。いつでも上を見ていたいのです。そしてだから「自分は駄目だ」と否定してしまうのです。でも同時に、自分より劣っていると思うものを気づかずに見下げているのではないでしょうか。劣等感とは実は自分自身に対する、そして他に対する「差別の心」なのです。劣等感のもとになっているのは比較する心。他人と比較することによってしか自分を確認できない心。比べることのできないものまで比べている心。でも、本当に、すべての優劣を決めることができるでしょうか。「水」と「空気」、「花」と「根」、「父」と「母」、「娘」と「息子」のどちらが優れていると言えるのでしょうか。すべてが比べられると考えるとき、あなたは、あなたの中にある唯一のいのちに目をつぶり、他の中にある唯一のいのちを殺してしまいます。なぜ、あるがままの世界は、多様なのでしょう。なぜ、人々は様々なのでしょう。それは、どれもこれもが、唯一のものとして取り替えることのできないものとしてはじめから、認められ愛されているからです。「愛は多様をよろこぶ」という事実を、眼を開いて見てください。いのちの次元から見れば、すべてはかけがえのないもの比べることのできない尊さを抱いています。それが真実なのです。このひととき、比較することを忘れてください。このひととき、自他の中に息づくいのちのことだけを想ってください。その唯一のいのちに基づいて、あなたが、あなたの可能性と責任を果たしてゆくために。現実的に、事態に応える力を身につけるためには、失敗を繰り返しても、鍛錬を持続させることが不可欠です。つまずきも失敗も、あって当然の過程なのです。転ぶことを過度に恐れることなく、そのつまずきや失敗自体が前進であることを信じて、あなた自身を見守ってください。

新・祈りのみち(高橋佳子著)より

身理(おさ)まりて国乱るるものを聞かず

貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。
「君主たる者はなによりもまず人民の生活の安定を心掛けねばならない。人民を搾取して贅沢な生活に耽るのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体の方がまいってしまう。天下の安泰を願うなら、まず、己の姿勢を正しくする必要がある。いまだかつて、体はまっすぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞かない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、他でもない、その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望の対象は果てしなく広がり、それに対する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身が入らなくなり、人民を苦しみにおとしいれるだけだ。そのうえ、君主が道理に合わないことを一言でもいえば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもその事に思いを致し、極力、おのれの欲望をおさえるようにつとめている。」
諫議大夫の魏微が答えた。
「昔から、聖人とあがめられた君主は、いずれもそのことをみずから実践した人々であります。ですから理想的な政治を行うことができたのです。
かつて楚の荘王が賢人詹何(せんか)を招いて政治の要諦をたずねたところ、詹何は「まず君主が己の姿勢を正すことだ」と答えました。楚王が重ねて具体的な方策についてたずねました。それでも詹何は「君主が姿勢を正しくしているのに、国が乱れたということはいまだかつてありません。」と答えただけでした。陛下のおっしゃったことは詹何の申し述べたこのことばと、全く同じであります。」

【私の経営箴言】
経営の安定を願うなら、己の言動を正し、私欲を抑えることだ。

つもりちがい10カ条

1. 高いつもりで 低いのが「教養」
2. 低いつもりで 高いのが「気位」
3. 深いつもりで 浅いのが「知識」
4. 浅いつもりで 深いのが「欲望」
5. 厚いつもりで 薄いのが「人情」
6. 薄いつもりで 厚いのが「面皮」
7. 強いつもりで 弱いのが「根性」
8. 弱いつもりで 強いのが「自我」
9. 多いつもりで 少ないのが「分別」
10.少ないつもりで 多いのが「無駄」

疑いが生じるとき

信頼していた人を、信用してきた人たちを、信じ切れなくなるとき。表面では以前と変わらない様子をふりまきながら、疑い始めるとき。
「本当に信じてよいのだろうか」、「もしかしたら、だまされているのではないか」、「もしかしたら、見誤ってきたのではないか」心の奥では疑惑が頭をもたげ、ぐるぐると回り出す。人に対する不信の始まり。猜疑心の芽生え。すぐにも結論を出したい想いに駆られるかもしれません。
でも、急ぎ過ぎてはいけません。性急な断定は感情に流されてしまうだけです。どうしても必要な判断だけを下し、心の中では最終的な判断を待つことです。感情や思考から明らかな認識へ、うわさや憶測から事実へ、一度、心を移してください。
どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。自分の快苦、利害の判断と「信じること」とは次元の違うことです。もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならばそれは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。信じることは、全部を受けとめてゆくこと。眼を閉じてしまうことではありません。耳をふさいでしまうことではありません。眼を開き、耳を開いてどこまでも見届け、どこまでも聞き届けること。すべてを受けとめ、それに応えつつ最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。
信じるためには、深く深く受けとめなければなりません。良いところも、悪いところも、ありのままに見なければなりません。あるときには、じっと見守り、あるときには、ひたすらに関わり合うのです。そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
たとえその言動に「ノー」を示すときでも、存在そのものに対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。それが信じるということでしょう。
自分の快苦、利害の計算をひとまず脇に置いて、もう一度、その人を見てください。先入観と思い入れと、期待と恐れを突き抜けてゆく真実だけに忠実な出会いを念じるのです。雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いはボタンのかけ違いのような判断の誤りを誘う妄想になりやすいものです。
事実を見、事実を想って、疑いの肥大を断つことです。疑問は根本を肯定するために投げかけられるべきもの。否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、神の心につながってゆく清さがあるかどうかが鍵になります。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より

所得税ゼミナール(相談事例)NO.5

相談事例 非居住者から日本国内にある不動産を購入する場合の課税上の取扱いはどのようになりますか。
【回 答】
[原則]  非居住者が日本国内にある土地及び建物等の不動産を譲渡した場合には、その譲渡対価を支払う者は、その支払いの際に譲渡対価の10.21%の税率により所得税及び復興特別所得税(以下、「所得税等」といいます。)を源泉徴収する必要があります。譲渡対価を得た非居住者は、確定申告をすることにより所得税等の精算を行うことになります。また、各国と締結している租税条約においても、ほとんどの条約が不動産の所在地国に課税権がある(不動産所在地国課税)としており、国内法と同様の取扱いとなっています。(したがって、不動産の譲渡対価については、通常租税条約による軽減、免除はないことから、一般的には、「租税条約に関する届出書」の提出について考える必要はありません。)
[特例]  土地等の譲渡対価の額が1億円以下で、その土地等を自己又はその親族の居住の用に供するために譲り受けたものである場合には、その個人(法人は除きます。)が支払う譲渡対価については、源泉徴収をする必要はありません(令281の3)。また、この特例により、源泉徴収不要とされても、非居住者の所得税等が非課税となったわけではありませんので、確定申告は必要となります。なお、譲渡対価が1億円以下かどうかの判定は、土地等の譲渡をした側の譲渡対価の額(非居住者が共有で所有している場合には、共有者それぞれの対価の額)で判定します。

所得税ゼミナール(相談事例)NO.4

相談事例 非居住者から日本国内にある不動産を賃借する場合の課税上の取扱いはどのようになりますか。
【回 答】
[原則] 非居住者が日本国内にある土地及び建物等の不動産を貸し付けている場合、その対価(以下「賃貸料等」といいます。)を支払う者は、その支払いの際に賃貸料等の20.42%の税率により所得税及び復興特別所得税(以下、「所得税等」といいます。)を源泉徴収する必要があります。賃貸料を得た非居住者は、確定申告をすることにより所得税等の精算を行うこととなります。また、各国と締結している租税条約においても、ほとんどの条約が不動産の所在地国に課税権がある(不動産所在地国課税)としており、国内法と同様の取扱いとなっています。(したがって、賃貸料等については、通常租税条約による軽減、免除はないことから、一般的には、「租税条約に関する届出書」の提出について考える必要はありません。)
[特例] 賃貸料のうち、その土地、家屋等を自己又はその親族の居住の用に供するために借り受けた個人(法人は除きます。)が支払うものについては、源泉徴収をする必要はありません(令328二)。 また、この特例により、源泉徴収不要とされても、非居住者の所得税等が非課税となったわけではありませんので、確定申告は必要となります。