劣等感に苛まれるとき

皆が自分より確かそうに見えるとき。自信のない自分を隠し切れないとき。他人と比較して、自分の足りなさや自分の不甲斐なさを嘆くとき。「あいつはいいよ、頭がいいから」、「あの人は何であんなに人から好かれるのかしら」、「私はどうせ駄目、何をやっても大したことはない」。ひがむ心、自己卑下する想いに苛まれて落ち込んでしまうことがあります。劣等感が頭をもたげてきて自分をへこませることがあります。けれども、よく考えてみましょう。劣等感だけを持つことはできません。劣等感と優越感とはコインの裏と表のようなものです。あなたはまずそのことをよく考えてください。劣等感を抱いている心は自分自身を見つめずにいつも、自分よりも優れていると思うものを見上げています。いつでも上を見ていたいのです。そしてだから「自分は駄目だ」と否定してしまうのです。でも同時に、自分より劣っていると思うものを気づかずに見下げているのではないでしょうか。劣等感とは実は自分自身に対する、そして他に対する「差別の心」なのです。劣等感のもとになっているのは比較する心。他人と比較することによってしか自分を確認できない心。比べることのできないものまで比べている心。でも、本当に、すべての優劣を決めることができるでしょうか。「水」と「空気」、「花」と「根」、「父」と「母」、「娘」と「息子」のどちらが優れていると言えるのでしょうか。すべてが比べられると考えるとき、あなたは、あなたの中にある唯一のいのちに目をつぶり、他の中にある唯一のいのちを殺してしまいます。なぜ、あるがままの世界は、多様なのでしょう。なぜ、人々は様々なのでしょう。それは、どれもこれもが、唯一のものとして取り替えることのできないものとしてはじめから、認められ愛されているからです。「愛は多様をよろこぶ」という事実を、眼を開いて見てください。いのちの次元から見れば、すべてはかけがえのないもの比べることのできない尊さを抱いています。それが真実なのです。このひととき、比較することを忘れてください。このひととき、自他の中に息づくいのちのことだけを想ってください。その唯一のいのちに基づいて、あなたが、あなたの可能性と責任を果たしてゆくために。現実的に、事態に応える力を身につけるためには、失敗を繰り返しても、鍛錬を持続させることが不可欠です。つまずきも失敗も、あって当然の過程なのです。転ぶことを過度に恐れることなく、そのつまずきや失敗自体が前進であることを信じて、あなた自身を見守ってください。

新・祈りのみち(高橋佳子著)より

疑いが生じるとき

信頼していた人を、信用してきた人たちを、信じ切れなくなるとき。表面では以前と変わらない様子をふりまきながら、疑い始めるとき。
「本当に信じてよいのだろうか」、「もしかしたら、だまされているのではないか」、「もしかしたら、見誤ってきたのではないか」心の奥では疑惑が頭をもたげ、ぐるぐると回り出す。人に対する不信の始まり。猜疑心の芽生え。すぐにも結論を出したい想いに駆られるかもしれません。
でも、急ぎ過ぎてはいけません。性急な断定は感情に流されてしまうだけです。どうしても必要な判断だけを下し、心の中では最終的な判断を待つことです。感情や思考から明らかな認識へ、うわさや憶測から事実へ、一度、心を移してください。
どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。自分の快苦、利害の判断と「信じること」とは次元の違うことです。もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならばそれは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。信じることは、全部を受けとめてゆくこと。眼を閉じてしまうことではありません。耳をふさいでしまうことではありません。眼を開き、耳を開いてどこまでも見届け、どこまでも聞き届けること。すべてを受けとめ、それに応えつつ最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。
信じるためには、深く深く受けとめなければなりません。良いところも、悪いところも、ありのままに見なければなりません。あるときには、じっと見守り、あるときには、ひたすらに関わり合うのです。そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
たとえその言動に「ノー」を示すときでも、存在そのものに対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。それが信じるということでしょう。
自分の快苦、利害の計算をひとまず脇に置いて、もう一度、その人を見てください。先入観と思い入れと、期待と恐れを突き抜けてゆく真実だけに忠実な出会いを念じるのです。雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いはボタンのかけ違いのような判断の誤りを誘う妄想になりやすいものです。
事実を見、事実を想って、疑いの肥大を断つことです。疑問は根本を肯定するために投げかけられるべきもの。否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、神の心につながってゆく清さがあるかどうかが鍵になります。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より

「火の心」を育む祈り

「火の心」とは、本当に大切なものに一心にまごころを尽くす、熱き心の菩提心。
心の中に燃える「火」を想い描いてください。一時(いっとき)としてとどまることなく変化し動きながら燃え続けるように見えて「火」は、「今」というただ一点をいのちとしています。今にすべてをかけるように、熱く明るく燃える「火」は「今」を燃やし尽くす力。
「今」という一回生起の時をこれ以上はないというくらいの熱をもって完全に燃焼させることができるのが「火の心」です。
猶予の感覚が少しでも混じれば、それは叶いません。依存の想いに少しでも傾けばいのちを捉えることはできません。最も大切な一事に、最も大切にすべき一点にすべてをかけて集中することを想ってください。

(祈りの言葉)
わたくしは「火」のごとき熱き心を育みます。現在にいのちを込めて人生の仕事を果たすことができるようにどうぞわたくしを導いてください。大切な一点のために中心をなす一事のために一切を焼き尽くすほどの熱を自らの内に保ち続けることができますように.
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「空の心」を育む祈り

「空の心」とは、何ごとにもとらわれず、無心に生きる自由な心の菩提心。
「空」を見上げてください。それが叶わないなら、心の中に「空」を想ってください。
「空」は限りない広がりを抱くものです。
どこまでも妨げるものがなく、どこまでも高く、すべてを超えて広がりゆくもの。
現在の中に生きている私たちは心をどこかにとどめ何かに固着させがちです。
区分けし、限定して考えることを常としています。
上手く区切ることのできる人が優れた能力の持ち主であると考えられたりします。
左と右に分け上と下を分ける力世界の一画に自分の場所を区切ることのできる力を人間の力量として見るということです。
人の心もその区分けに翻弄され、こだわります。
こだわっているとき、往々にして、その外に広がっている世界は見えなくなります。
ただその区分けにとらわれ、人生の一大事と思ってしまうのです。
「空」は、そんな人間の世界のすべてを超えて広がってゆきます。
区分けに必死な人間の意識の底を抜いてそれを超える広がりを私たちに見せてくれるのです。
その広がりが本当のいのちを呼びかけているのです。
どこまでも自由無碍に広がる「空」に、いつも、あなたの心を重ね合わせてください。

(祈りの言葉)
自らがつくり出しているこだわりと差別に訣別するために「空」の広がりを感じさせてください。
「空」の自由さを味わわせてください。
何の障害もなく澄みきった大空にわたくしを托身させてください。
わたくしは大空をはばたくことを願っています。
おおらかで自由なわたくし自身を取り戻したいのです。
わたくしは、「空」のごとき自由無碍な心を育みます。
何ごとにもとらわれず、無心に生きることができるようにわたくしを導いてください。

「祈りのみち」(高橋佳子著)より

先世の結縁

或(あるい)は一(いっ)国(こく)に生(うま)れ、或(あるい)は一郡(いちぐん)に住(す)み、或(あるい)は一県(いちけん)に処(お)り、或(あるい)は一村(いっそん)に処(お)り、一樹(いちじゅ)の下(もと)に宿(やど)り、一河(いちが)の流(ながれ)を汲(く)み、一夜(いちや)の同宿(どうしゅく)、一日(いちにち)の夫婦(ふうふ)、一所(いっしょ)の聴聞(ちょうもん)、暫時(ざんじ)の同道(どうどう)、半時(はんじ)の戯笑(げしょう)、一言(いちげん)の会釈(えしゃく)、一坐(いちざ)の飲酒(おんしゅ)、同杯(どうはい)同酒(どうしゅ)、
一時(いちじ)の同車(どうしゃ)、同畳同坐(どうじょうどうざ)、同牀一臥(どうしょういちが)、軽重(けいちょう)異(ことな)るあるも、親疏(しんそ)別(べつ)有(あ)るも、皆(みな)是(これ)れ先世(せんぜ)の結縁(けちえん)なり。
(聖徳太子「説法(せっぽう)明眼論(みょうげんろん)」)
(訳)
ある国に生まれ、ある地方に住み、ある県に住み、ある村に住み、同じ木の下での雨宿り、同じ河の水を使い、一夜の同宿、一日だけの夫婦関係、同じところで話を聴き、ほんの短い同伴、ちょっとした微笑み、何気ないご挨拶、宴席での飲酒、たまたまの同車、同席、同宿、これらのことは関係が深い、薄い、親しい、疎いと様々であるが、全て、生まれる前の前世の因縁が関係しているのです。