信頼していた人を、信用してきた人たちを、信じ切れなくなるとき。表面では以前と変わらない様子をふりまきながら、疑い始めるとき。
「本当に信じてよいのだろうか」、「もしかしたら、だまされているのではないか」、「もしかしたら、見誤ってきたのではないか」心の奥では疑惑が頭をもたげ、ぐるぐると回り出す。人に対する不信の始まり。猜疑心の芽生え。すぐにも結論を出したい想いに駆られるかもしれません。
でも、急ぎ過ぎてはいけません。性急な断定は感情に流されてしまうだけです。どうしても必要な判断だけを下し、心の中では最終的な判断を待つことです。感情や思考から明らかな認識へ、うわさや憶測から事実へ、一度、心を移してください。
どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。自分の快苦、利害の判断と「信じること」とは次元の違うことです。もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならばそれは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。信じることは、全部を受けとめてゆくこと。眼を閉じてしまうことではありません。耳をふさいでしまうことではありません。眼を開き、耳を開いてどこまでも見届け、どこまでも聞き届けること。すべてを受けとめ、それに応えつつ最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。
信じるためには、深く深く受けとめなければなりません。良いところも、悪いところも、ありのままに見なければなりません。あるときには、じっと見守り、あるときには、ひたすらに関わり合うのです。そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
たとえその言動に「ノー」を示すときでも、存在そのものに対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。それが信じるということでしょう。
自分の快苦、利害の計算をひとまず脇に置いて、もう一度、その人を見てください。先入観と思い入れと、期待と恐れを突き抜けてゆく真実だけに忠実な出会いを念じるのです。雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いはボタンのかけ違いのような判断の誤りを誘う妄想になりやすいものです。
事実を見、事実を想って、疑いの肥大を断つことです。疑問は根本を肯定するために投げかけられるべきもの。否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、神の心につながってゆく清さがあるかどうかが鍵になります。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より