戴恩不知恩 如樹鳥枯枝
蒙徳不思徳 如野鹿損草
恩を戴ひて恩を知らざるは樹の鳥の枝を枯らすが如し
徳を蒙(かふむ)つて徳を思はざるは野の鹿の草を損ずるが如し
恩を受けたのに、その恩に感謝しないのなら、樹によって実を食べたり、休んだりしている鳥が、小さい実を取ったり葉を食べ尽くしたりして枯らすのと同じようなものです。
徳を受けながら感じないのなら、野の草を食い荒らして明日からの食べ物に苦しむ鹿と同じようなものです。
これは、童子教の言葉で、世の為、人の為に尽くしていけば、廻り廻って我が身に帰るのです。それが人としての正しい生き方という教えなのでしょう。
「情けは人のためならず、めぐりめぐって我が身に還る」
貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。
「君主たる者はなによりもまず人民の生活の安定を心掛けねばならない。人民を搾取して贅沢な生活に耽るのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体の方がまいってしまう。天下の安泰を願うなら、まず、己の姿勢を正しくする必要がある。いまだかつて、体はまっすぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞かない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、他でもない、その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望の対象は果てしなく広がり、それに対する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身が入らなくなり、人民を苦しみにおとしいれるだけだ。そのうえ、君主が道理に合わないことを一言でもいえば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもその事に思いを致し、極力、おのれの欲望をおさえるようにつとめている。」
諫議大夫の魏微が答えた。
「昔から、聖人とあがめられた君主は、いずれもそのことをみずから実践した人々であります。ですから理想的な政治を行うことができたのです。
かつて楚の荘王が賢人詹何(せんか)を招いて政治の要諦をたずねたところ、詹何は「まず君主が己の姿勢を正すことだ」と答えました。楚王が重ねて具体的な方策についてたずねました。それでも詹何は「君主が姿勢を正しくしているのに、国が乱れたということはいまだかつてありません。」と答えただけでした。陛下のおっしゃったことは詹何の申し述べたこのことばと、全く同じであります。」
【私の経営箴言】
経営の安定を願うなら、己の言動を正し、私欲を抑えることだ。
1. 高いつもりで 低いのが「教養」
2. 低いつもりで 高いのが「気位」
3. 深いつもりで 浅いのが「知識」
4. 浅いつもりで 深いのが「欲望」
5. 厚いつもりで 薄いのが「人情」
6. 薄いつもりで 厚いのが「面皮」
7. 強いつもりで 弱いのが「根性」
8. 弱いつもりで 強いのが「自我」
9. 多いつもりで 少ないのが「分別」
10.少ないつもりで 多いのが「無駄」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
福沢諭吉「学問のすすめ」より
其の道を尽して死する者は正(せい)命(めい)なり。桎梏(しっこく)(人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの)して死する者は、正命に非ざるなり。
☞「三命説」(命(運命)に①受命・正命(持って生まれた運命)と随命(行為の善悪に対して禍福が正しく表れる)と遭命(善事を行いながら不幸に遭遇)があるとする説)
其の心を尽す者は、其の性を知る。其の性を知れば、則ち天を知る。
其の心を存し、其の性を養ふは、天に事(つか)ふる所以(ゆえん)なり。
殀寿(ようじゅ)貳(たが)はず、身(み)を修(おさ)めて以て(も)之を俟(ま)つは、命を立つる所以なり。
☞「四端の心」
惻(そく) 隠(いん) 深く痛ましく思う(仁の端(めばえ))
羞(しゅ) 悪(うお) 己の不善を恥じ、人の不善を憎む(義の端)
辞(じ) 譲(じょう) 慎み深く譲る(礼の端)
是(ぜ) 非(ひ) 是を是として、正邪善悪の別(智の端)
まことの語法(五法)とは
誠 言動に偽りがない(言が成る)
実 事柄がしっかりして実がある
良 性が純で育ちが良い(素直)
真 真っ直ぐで繕いがない
信 人を欺かず約をはたす
「大学」は入徳の書として曽子(そうし)によって著されたものであり、四書(「論語」「大学」「中庸」「孟子」)五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)の最初に学ぶべきものとされている。
儒教の根本思想である「修(しゅう)己(こ)治人(ちしん)」とは、自分をより高い人間性を持つことに導いてゆき、それによって人にもより良い影響を与えて正しい人の道へ進ませることができるということをいう。
大学の三綱領(『大学』における大切な「三つの柱」)
(一) 明徳(めいとく)を明らかにする
(二) 民に親しむにあり
(三) 至善に止まるに在り
「八条目」(三綱領を実践してゆく手段方法)
大学の八条目はその実践工夫である。
格物、致知、誠意、正心で自らの身を修める工夫をして斉家、治国平天下はその修まった身を世に処して進退する道を説く。
(一) 自分自身を正す(格物)
(二) 自分自身を正すことによって自ら知が到る(致(ち)知(ち))
(三) 知が到ることによって意識感情が正常になる(誠意)
(四) 意が正常になると内なる心も正しくなる(正心)
(五) 心が正しくなると身がよく修まる(修身)
(六) 身が修まると家も斉うようになる(斉家)
(七) 家が斉うと、国も治まるようになる(治国)
(八) 国も治まると天下も平らかになっていく(平天下)
大学書き下し文
大学の道は、明徳(めいとく)(天から授かった特性)を明らかにするに在(あ)り、民を新(あら)たにするに在り、 至(し)善(ぜん)(最高の善)に止(とど)まるに在り。 止まるを知って后(のち)定(さだ)まるあり、定まって后(のち)よく静かに、静かにして后(のち)よく安く、 安くして后(のち)よく慮(おもんばか)り、慮りて后(のち)能(よ)く得(う)。 物に本末有り、事に終始有り。先後(せんご)する所(ところ)を知ればすなわち道に近し。 古(いにしえ)の明徳(めいとく)を天下に明らかにせんと欲する者は、まず其の国を治む。 其の国を治めんと欲する者は、先(ま)ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、まず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、まず其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、まず其の意(こころばせ)を誠(まこと)にす。其の意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、まず其の知を致す。知を致すは物に格(いた)るに在り。物格って后(のち)知至る。 知至って后(のち)意(こころばせ)誠なり。 意(こころばせ)誠にして后(のち)心正し。 心正しくして后(のち)身修まる。 身修って后(のち)家斉(ととの)う。 家斉(ととの)いて后(のち)国治まる。 国治まって后(のち)天下平らかなり。 天子よりもって庶人に至るまで、壱(いつ)に是(これ)(一切)に皆身を修むるを以て本と為(な)す。 その本乱れて末(すえ)治まる者はあらず。 その厚くするところの者を薄くして、その薄くするところの者を厚きは、いまだこれあらざるなり。
『小學(小学)』は、187年に朱熹が劉子澄に編纂させた儒教的な初等教科書で、朱子学の基本となる書です。儒学では『四書』(『論語』・『孟子』・『大學』・『中庸』)と『六経』が重要な書となりますが、朱子学では、これに『小學』と『近思録』が加わります。
小學は年少者のための初級テキストとされましたが、その内容は古聖人の善行や箴言および人倫の実践的教訓などを集めた日常の礼儀作法や格言・善行を行うための啓蒙的なものです。
四書五経を学ぶ順序は、『小學』→『近思録』『大學』→『論語』→『孟子』→『中庸』→『六経』です。
小學は「内篇」と「外篇」があり、「内篇」は、立教、明倫、敬身、稽古の4篇からなり、主として原則的な修養の理や温故知新を説いています。「外篇」は、嘉言、善行の2嘉言からなり、古人の言行が書かれています。『小學』は、自己を治める修己として、子供教育に非常に優れた教育書、道徳書といえます。
【小學序】
古は小學、人を敎うるに灑掃・應對・進退の節、親を愛し、長を敬し、師を隆び、友に親しむの道を以てす。皆、脩身・齊家・治国・平天下の本と爲す所以にして、必ず其れをして講じて、之を幼穉の時に習わしむ。其の習い、知と長じ、化、心と成り、扞格して勝えざるの患い無からんことを欲するなり。今、其の全書は見る可からずと雖も、傳記に雜出する者亦多し。讀む者往往直古今の宜しきを異にするを以てして、之を行う莫し。殊に知らず、其の古今の異なること無き者は、固より未だ始より行う可からざるにはあらざるを。今、頗る蒐集して、以てこの書を爲し、之を憧蒙に授け、其の講習に資す。庶幾わくば風化の万一に補い有らんかと爾か云う。
淳煕丁未三月朔旦、晦菴題す
【小學題辭】
元亨利貞は天道の常、仁義禮智は人性の綱。凡そ此れ厥の初め不善有ること無く、藹然たる四端、感に隨いて見わる。親を愛し兄を敬し、君に忠に長に弟なる、是を秉彛と曰う。順うこと有りて彊うること無し。惟れ聖は性のままなる者、浩浩たる其の天、毫末をも加えずして萬善足る。衆人は蚩蚩、物欲交々蔽い、乃ち其の綱を頹して此の暴棄に安んず。惟れ聖斯に惻れみ、學を建て師を立て、以て其の根に培い、以て其の支を達す。小學の方は、灑掃應對、入りては孝、出でては恭、動くには悖ること或る罔く、行いて餘力有らば、詩を誦み書を讀み、詠歌し舞蹈して、思うには逾ゆること或る罔し。理を窮め身を脩むるは斯れ學の大、明命赫然として内外有ること罔し。德崇く業廣くして、乃ち其の初めに復る。昔足らざるに非ず、今豈餘有らんや。世遠く人亡せ、經殘われ敎え弛み、蒙養端しからず、長じて益々浮靡、郷に善俗無く、世に良材乏しく、利欲紛挐し、異言喧豗す。幸に茲の秉彛は極天墜つる罔し。爰に舊聞を輯め來裔を覺さんことを庶う。嗟嗟小子、敬みて此の書を受けよ。我が言の耄なるに匪ず。惟れ聖の謨なり。
次の12項目を「教育勅語の12徳」といいます。
1.孝行⇒子は親に孝養を尽す。
2.友愛⇒兄弟姉妹は仲良く。
3.夫婦の和⇒夫婦はいつも仲睦まじく。
4.朋友の信⇒友達はお互い信じ合ってつき合う。
5.謙遜⇒自分の言動を慎む。
6.博愛⇒広くすべての人に愛の手を差し伸べる。
7.修学習業⇒勉学に励み職業を身につる。
8.智能啓発⇒知徳を養い才能を伸ばす。
9.徳器成就⇒人格の向上に努める。
10.公益世務⇒広く世に中の人々や社会の為になる仕事に励む。
11.遵法⇒法律や規則を守り社会の秩序に従う。
12.義勇⇒正しい勇気をもってお国の為に真心を尽くす。