この世界に生きる条件。すべてがとどまることなく移り変わり、崩壊に至る定を人は免れることができないということ。あらゆる事態が複雑な関わりゆえに、自分の思い通りにはならない定を抱くということ。
それらの定を負いながら生きる私たちは、誰一人例外なく、人生の中で、様々な苦難や試練にさらされます。突然の病や事故。人間関係の不和とあつれき。思いもかけない失敗や実績の低迷。期待はずれの結果や裏切り、約束の反故。互いを傷つけずにはおかない離反や別れ。予告なく襲いかかってくる人災や天災…。私たちの前で、無数の暗転の事態が今にも口を開けようとしています。だからこそ、私たちは苦難と試練を引き受ける「山の心」を求めるのです。「山の心」とは、いかなる苦難や試練にも揺らぐことがない、不動の心の菩提心。
「山」は不動の象徴です。長い時の流れの中にあって、どれほど厳しい風雪にも、どっしりと揺らぐことなく大地に身を構え続けてきた「山」。その「山」に倣って、何ごとが起ころうと揺らぐことなく、事態を受けとめたいと願うのです。すべてをじっと黙って受けとめてきた「山の心」を想ってください。「山の心」はただ動じない重い心なのではありません。一切の痛みと呼びかけを受けとめながら、決して重心を動かさない不動の心です。
(祈りの言葉)
わたくしに「山の心」を与えてください。わたくしは現実の重さをすべて受けとめたいのです。
呼びかけの深さをすべて知りたいのです。そのために、確かな重心を備えさせてください。
いかなる苦難や試練にも決して揺らぐことがない「山」のごとき安らぎの心を育ませてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「月の心」を育む祈り
「月」は自ら光を発するものではなく、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。それゆえ、「月」は、太陽のような存在だと見なされてきました。しかし、それだけではありません。「月」の光の静かさ。その透明さ。その光は何とやさしく、そして神秘的に降り注いでいることでしょう。「月」は自らが発光しないことを知っており、自らを鏡のようにして太陽の光を私たちに送ってくれます。それは回向返照。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす回向の営みそのものです。
神秘の気配に満ちた「月」の光は、私たち一人ひとりを世界の不思議、人生の不思議に誘ってくれます。私たちの心は、普段は見えないもの、隠れた側面に自然に導かれます。見えるものから見えないところで他のために尽くす陰徳の歩みへと私たちを誘うものです。見えないところで他を支え、見えないところで全体のために尽くす歩みの尊さに私たちを導いてゆくのです。
「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることができる。陰徳の心の菩提心。
その「月の心」があなたの内に息づいていることを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、見えるものだけでなく、見えないものを想う者になります。形だけでなく、形を支える次元を求める者になります。現れだけでなく、隠れたところで心を尽くす者になります。
どうか、その歩みを支えてください。わたくしは、「月」のごとき隠徳の心を育みます。忍土の闇をひそやかに照らし続けることができますように。わたくしの内なる「月の心」をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
劣等感に苛まれるとき
皆が自分より確かそうに見えるとき。自信のない自分を隠し切れないとき。他人と比較して、自分の足りなさや自分の不甲斐なさを嘆くとき。「あいつはいいよ、頭がいいから」、「あの人は何であんなに人から好かれるのかしら」、「私はどうせ駄目、何をやっても大したことはない」。ひがむ心、自己卑下する想いに苛まれて落ち込んでしまうことがあります。劣等感が頭をもたげてきて自分をへこませることがあります。けれども、よく考えてみましょう。劣等感だけを持つことはできません。劣等感と優越感とはコインの裏と表のようなものです。あなたはまずそのことをよく考えてください。劣等感を抱いている心は自分自身を見つめずにいつも、自分よりも優れていると思うものを見上げています。いつでも上を見ていたいのです。そしてだから「自分は駄目だ」と否定してしまうのです。でも同時に、自分より劣っていると思うものを気づかずに見下げているのではないでしょうか。劣等感とは実は自分自身に対する、そして他に対する「差別の心」なのです。劣等感のもとになっているのは比較する心。他人と比較することによってしか自分を確認できない心。比べることのできないものまで比べている心。でも、本当に、すべての優劣を決めることができるでしょうか。「水」と「空気」、「花」と「根」、「父」と「母」、「娘」と「息子」のどちらが優れていると言えるのでしょうか。すべてが比べられると考えるとき、あなたは、あなたの中にある唯一のいのちに目をつぶり、他の中にある唯一のいのちを殺してしまいます。なぜ、あるがままの世界は、多様なのでしょう。なぜ、人々は様々なのでしょう。それは、どれもこれもが、唯一のものとして取り替えることのできないものとしてはじめから、認められ愛されているからです。「愛は多様をよろこぶ」という事実を、眼を開いて見てください。いのちの次元から見れば、すべてはかけがえのないもの比べることのできない尊さを抱いています。それが真実なのです。このひととき、比較することを忘れてください。このひととき、自他の中に息づくいのちのことだけを想ってください。その唯一のいのちに基づいて、あなたが、あなたの可能性と責任を果たしてゆくために。現実的に、事態に応える力を身につけるためには、失敗を繰り返しても、鍛錬を持続させることが不可欠です。つまずきも失敗も、あって当然の過程なのです。転ぶことを過度に恐れることなく、そのつまずきや失敗自体が前進であることを信じて、あなた自身を見守ってください。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より
身理(おさ)まりて国乱るるものを聞かず
貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。
「君主たる者はなによりもまず人民の生活の安定を心掛けねばならない。人民を搾取して贅沢な生活に耽るのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体の方がまいってしまう。天下の安泰を願うなら、まず、己の姿勢を正しくする必要がある。いまだかつて、体はまっすぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞かない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、他でもない、その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望の対象は果てしなく広がり、それに対する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身が入らなくなり、人民を苦しみにおとしいれるだけだ。そのうえ、君主が道理に合わないことを一言でもいえば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもその事に思いを致し、極力、おのれの欲望をおさえるようにつとめている。」
諫議大夫の魏微が答えた。
「昔から、聖人とあがめられた君主は、いずれもそのことをみずから実践した人々であります。ですから理想的な政治を行うことができたのです。
かつて楚の荘王が賢人詹何(せんか)を招いて政治の要諦をたずねたところ、詹何は「まず君主が己の姿勢を正すことだ」と答えました。楚王が重ねて具体的な方策についてたずねました。それでも詹何は「君主が姿勢を正しくしているのに、国が乱れたということはいまだかつてありません。」と答えただけでした。陛下のおっしゃったことは詹何の申し述べたこのことばと、全く同じであります。」
【私の経営箴言】
経営の安定を願うなら、己の言動を正し、私欲を抑えることだ。