大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった。
偉大なことが出来るようにと健康を求めたのに、
より良きことをするようにと、病気をたまわった。
幸せになろうと、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。
人生を享受しようとして、あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。
求めたものはひとつとして、与えられなかったが、願いは全て聞きとげられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた。
私はもっとも豊かに祝福されたのだ。
身體髪膚、之れを父母に受く、敢て毀傷せざるは、孝の始なり。 身を立て道を行なひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕す、孝の終なり。 夫れ孝は、親に事ふるに始まり、君に事ふるに中し、身を立つるに終る。 大雅に云ふ、 爾の祖を念ふ無からんや、厥の徳を聿べ修む、と
(意訳)そもそも我が身体、髪、皮膚、ありとあらゆるものは、父母より受けたるものである。 これを一時の惑いに失うこと無く、その生を尽くして全うするは、孝の始めである。 身を修めて道を行ない、名を後世に揚げて敬せらるに至る、このようにして父母を顕し先祖を讃えるに至らしめるは、孝の成就である。 孝というものは親に事えるに始まり、君に事えて全うし、身を立てて終える。 故に詩経の大雅にはこう詠われている。 汝の祖先の道を尊ぶべし、その徳を継ぎて修め帰す、と。
『孝経』は、中国の経書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動をしるしたという。十三経のひとつ。孝の大体を述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を細説し、そして孝道の用を説く。『孝経』の作者についてはいくつかの説がある。伝統的には孔子本人の作とされた。これは孔子を語り手としている以上当然ともいえる。曽子を作者とする説も古くからある。冒頭の開宗明義章の「身体髪膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。」は有名
それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきことは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて、誰か百年の形体をたもつべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりもしげしと言えり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
最高裁平成28年12月19日により、預貯金債権が遺産分割の対象とされることとなった.
相続人の生活費・相続債務の弁済・葬儀費用等の支払のため、法改正により、次のような遺産分割前の預貯金の払い戻しを認める制度が設けられた。なお、施行日は2019年7月1日から
① 裁判所の判断を経ずに預貯金の払戻しを認める制度(民法909条の2)
② 裁判所の判断(仮処分決定)の下で預貯金の仮払を認める制度(家事事件手続法200条3項)
死ぬ時に、ああ、私にはもっと別の人生があった筈なのに、と自分の生涯を後悔しなければならない程不幸な事があるだろうか、と今まで私は思い続け、それで死ぬのも怖れ続けていた。でもこうした後悔は随分傲慢な思いなのかもしれない。――始まりがあれば、終りがある。死とはそうしたもの。(「火の山ー山猿記」(津島佑子)より)
「太陽の心」とはいかなるものでしょうか。「太陽」は、「自らを与えるもの」の象徴です。
「太陽」は、生きとし生けるものを守り育てる熱や光を、無償で平等に与え続けています。
一人ひとりの内なる「太陽」を想ってください。自らの快苦や好悪、損得、正邪、善悪などによって差別することなく、あらゆる人や生命を照らすのです。寒い冬にとって、暖かい「太陽」の熱は生きる力であり、暗い闇にとっては、明るい「太陽」の光は希望にほかなりません。「太陽」のように「自らを与える心」を目ざめさせ、その尽きることのない愛の心に倣って、あらゆる人々の手足となって心を尽くすとき、私たちは与えるだけでなく、自らもこの上ない魂の歓びを与えられることになります。一人ひとりの内なる太陽を想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは自らを与える生き方に憧れます。他のことを想うわたくしを引き出してください。
他のために生きることをわたくしの歓びにさせてください。
わたくしは、「太陽」のごとき愛の心を育みます。自らを捨て、心を尽くして、あらゆる人々の幸せを願うことができますように。わたくしの内なる「太陽」の心を導いてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「海の心」とは、あらゆる個性を包容して、全体を一つに結ぶことのできる広き心の菩提心。無数の河の流れがあらゆるものを運んで注いでいる「海」を想像してください。「海」は、そこに注ぐ数え切れない河の流れを一つに結ぶ受容の力の象徴です。谷や野を駆け巡ってきた無数の河は、様々なものを運んで「海」に押し流してゆきます。それらを受け入れて一つに結んでいるのが「海」。様々な違いのすべてを受け入れ、浄化し、一つの生命の中に再生させてゆくのが「海の心」。私たち人間の世界にも「海の心」が必要です。一人ひとりの生活の中にも「海の心」が求められています。この世界はあまりにも違いに満ちその違いに人々が心を奪われているからです。違いが違和感を引き出し、差別や憎しみの基となっているからです。私たちが同じ人間であり、同じ魂の存在であったとしても、この世界に生まれることによって、その共通部分を人は忘れてしまうものです。人生の条件とは、違いに満ちているもの。両親を通じて流れ込む、ものの見方・価値観という「血」生まれ育った地域や土地から流れ込む、習慣や価値という「地」時代・社会から流れ込む、知識や思想・価値観という「知」。自分と他人の三つの「ち」(血地知)が違うことに、人はどれほどの違和感を覚えてきたでしょう。そしてその違和感を、どれほどの反感や憎しみに変えてしまってきたでしょう。しかし、もし、その違いを包容する「海の心」を抱くことができるなら私たちは互いが同じ人間であり、同じ魂であることを思い出すことができるのです。
あなたがもし、受け入れ難いものを抱えているなら、広き海原を想ってください。誰かに反感を覚えているなら
すべてを受容する「海」にあなたの心を重ね合わせてください。人は誰も自身の内に始源の「海」を抱いているのです。
(祈りの言葉)
潮の流れのごとき静かな時を心に蘇らせてください。潮の満ち引きのごとき穏やかな呼吸を取り戻させてください。わたくしは「海」から生まれた生命であり、「海」に還ってゆくものであることを思い出させてください。わたくしは、「海」のごとき広き心を育みます。あらゆる個性を包容して、全体を一つに結ぶことができますように。どうか、限りない受容の力を引き出してください。どうか、限りない包容の力をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「風の心」とは、いかなるものでしょうか。
「風」は遠くから、何かを運んでくるものです。澱んだ大気の谷に、一陣の「風」が吹き抜けるとき、清新な空気が流れ込んで気配がまったく変わってしまいます。
我見にとらわれ、我意に固執するとき、場は閉塞し空気は澱んでいます。「風」はそこに窓を穿つ力です。停滞した事態、硬直した心に、「風」が吹くとき、それらを一変させる智慧と光が流れ入るのです。閉塞した空気が流動を始め、光転の循環を起こしてゆくのです。
「風の心」とは、誰の心にも我意を超えた願いを蘇らせる、颯爽とした「風」のような無垢な心の菩提心。根源の光、始源の智慧、中心の願いを蘇らせる「風」のことを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、いつも思い続けます。「風」起こる深淵を、光生まれる混沌を、いのち孕まれる根源を。どうか、そこに遡らせてください。それらを呼び覚ましてください。
わたくしは「風」のごとき颯爽とした心を育みます。我意を越えた切なる願いを自他の心に起こすことができますように。「風」のように歩ませてください。「風」のように生きさせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「観音」とは、この世界にあって苦しみ悩む人々の声(音)を自在に観ずる菩薩です。
衆生が様々な悩みや苦しみに遭遇したとき、「観音」の名を一心に唱えれば、その声をすべて聴き届け、衆生の七難を救うために種々の姿を現し、一人残らず救済してくれる存在です。「観音」は、慈悲心溢れる、衆生救済の力の象徴なのです。慈悲心の「慈」とは、相手を包み込み慈しむ温かな心。「悲」とは、相手の悲しみや苦しみを全身全霊で受けとめて、共に悲しみ、それを癒そうとする心、「抜苦与楽」の心です。
すなわち、「観音の心」とは、相手の苦しみを全身全霊で受けとめ、その痛みを取り除こうとする慈悲の心の菩提心。そのことをしるならばか「観音の心」とは、どれほど、遙けき場所に位置するものだろうかと思わずにはいられません。有余(道半ば)の菩薩として、煩悩を抱え、闇を抱えて歩む私たちにとって、その心はあまりに遠く離れているもののように思えます。しかし、またそれほど遙が遠くに見え隠れする「観音の心」を求め、それを目ざして歩むことにこそ大きな意味があり、それを願って歩む道心を抱くことができるのが私たち人間であるということなのではないでしょうか。私たち一人ひとりの内なる「観音の心」を念じてください。
(祈りの言葉)
どうか、共に生きる人々の苦しみをわが苦しみとさせてください。共に生きる人々の歓びをわが歓びとさせてください。世界に響く苦悩の声を受けとめたいのです。世界に流れる悲しみの涙を受けとめたいのです。わたくしにできることに心を尽くさせてください。
わたくしは「観音」のごとき慈悲の心を育みます。人々の苦しみを引き受けその仏性を守るために。どうぞわたくしの内なる慈悲心をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「大地の心」とは、いかなるものでしょうか。
「大地」は豊かな恵みを生み出す母胎です。多様な生命を懐に抱え、育み、生かしています。そして、少しの搾取もなく、差別もなく、あらゆる生命を育んで、恵みと富を生産するものです。人がいかなる豊かさを産み出そうとも、「大地」の豊かさには遠く及びません。
無から有を生ずるがごとく、「大地」は繰り返し尽きることなく、恵みをもたらし続けるのです。「大地の心」とは、大地のごとく、あらゆる存在を育み、その可能性を開花させることができる、子を育てる「親の心」の菩提心です。「親の心」とは、自分のことを横に置いても、子を愛し育み、助け支えようとする心。人を見たらその可能性を想い、どうしたらそれを引き出せるのかと考えてしまう心。育み、引き出す願いを抱いた、あなたの内なる「大地」のことを想ってください。
(祈りの言葉)
いのちの営みの母胎、人間の営みを支える「大地」をわたくしは今日も踏みしめました。
この「大地」から生まれ、この「大地」に支えられてきたわたくしであることを思います。
その恩義に応えさせてください。
「大地」のごとき豊かな心を育みます。あらゆる存在の可能性を引き出すことができますように。
どうか、あらゆる存在が輝く「縁」としてわたくしをはたらかせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より