「川の心」とはいかなる心でしょうか。「川」は一時としてとどまることなく流れ続け、一切のものを押し流し、様々な汚れを洗い流すものです。そして、流れることで、「川」は、自らも清浄であり続けます。弛みない「川」の流れは、私たちの心を洗い、想いを浄化させます。「川」の流れを見ているだけで、こだわりやとらわれを解きほぐし、そこから離れることができます。背負っている重荷を肩から下ろして、心を休めることができます。それはその重荷は決して固定的なものではなく、新しい時が来ることを教えてくれるからです。「川」の流れは、やがて訪れる希望の未来を示してくれるのです。「川の心」とは、一切のとらわれやこだわりを洗い流すことができる、清らかな心の菩提心です。怒り、謗り、妬み、恨み、僻み、傲慢、欺瞞、疑念、愚痴、怠惰、…。これら一切を洗い流し、自由な魂を導くもの。一時としてとどまるもののない、この諸行無常の世界に生きる私たちには「川の心」がもとより託されているのです。あなたの内なる「川」の浄化の力、変化の力を信じてください。
(祈りの言葉)
わたくしは川のごとき清らかな心を育みます。一切のとらわれやこだわりを洗い流すことができるように、まったく自由なわたくしをあらわしてください。
一から始めることができるように、透明になることができるように、わたくしに新たないのちを与えてください。新たな光を注いでください。
六観法(人物鑑定法)
その人物が忠実にして、公正で信頼に足る人物かどうかを観る人物鑑定法として
「貞観政要」に次のような記述がある。
1 貴ければ則ち其の挙ぐる所を観(人の上に立って、どのような人物を登用するか)
2 富みては則ち其の与ふる所を観(裕福になって、どのようにお金を使うか)
3 居りては則ち其の好む所を観(余暇において、どのようなことをしているか)
4 学べば則ち其の言ふ所を観(知識人となって、どのような発言をしているか)
5 窮すれば則ち其の受けざる所を観(貧窮したときに、悪銭を受けないか)
6 賎しければ則ち其の為さざる所を観(卑しい地位に在って、道に外れていないか)
※貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢(ごきょう)が編纂したとされる太宗(唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。)の言行録である。
題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。
「泉の心」を育む祈り
「泉の心」とはいかなるものでしょうか。「泉」は、澄み切った清らかなみずを、たゆみなく滔々と溢れさせるものです。その水は生命の水。いのちを潤し、渇きを癒すもの。忍土の中で、傷つき疲れた人々の心を癒し、励まし、力を与えるもの。そしてその水は智慧の水。解決と創造をもたらすもの。至るところにあらわれる困難な壁を超えて、一すじの白い道(最善の道)を切り開く智慧をもたらし続けるもの。その力の象徴が「泉」です。「泉の心」とは、道なきところに道を切り開き、不可能を可能にさせることができる、智慧の心の菩提心。忘れてはならないことがあります。「泉」がくみ上げるのは、地下水流であるということ。それは、長い時をかけて自然が浄化し、蓄積した見えない流れ。幾多の魂が、自らの浄化とともにまごころを尽くし続けたからこそ豊かで澄み切った水が尽きることなく溢れ続けるのです。あなたの内なる「泉」を見出すために、自らの井戸を掘り下げてください。その井戸を掘り進めて地下水流に突き当たったとき、必ず尽きることのない智慧があなたの「泉」から溢れてくることを信じてください。
(祈りの言葉)
魂が抱く智慧は限りないものです。どうぞ、その真実をわたくしに知らしめてください。
わたくしは、「泉」のごとき智慧の心を育みます。
道なきところに道を切り開き、不可能を可能に変えることができますように。
弛むことなく、あきらめることなく、とどまることなく、歩み続ける力を与えてください。
どうぞ、わたくしの内なる「泉」に光を注いでください。
その「泉」が滔々と尽きない智慧をあらわしますように。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「稲穂の心」を育む祈り
「稲穂の心」とは、実るほどに頭を垂れる、黄金の「稲穂」のごとき、感謝の心の菩提心です。
いつの時代にも、人は、自然が示す姿に、深い人生の真実を学んできました。実りの季節。手塩にかけた作物が実り、収穫を迎えるとき。黄金色に輝く「稲穂」が、たわわな実りをつけて頭を垂れる姿に私たちは、「感謝」の心を重ね合わせてきました。
自然の恵みが自らを育んでくれたことを知るかのように頭を垂れる「稲穂」の姿は、恩恵を受けとめる姿勢そのものです。そしてそれは、私たち自身を、あらゆる機会を通じて、人として、魂として、育まれている事実を思い出させる「恩恵の自覚」へと誘います。
その「恩恵」に目ざめるとき、私たちは、人生に与えられる一つ一つの出会い、出来事が自らの快苦・好悪・利害・善悪で判断されるだけのものでなく、大切な意味が孕まれているものであることを受けとめるようになるのです。
「稲穂の心」が知る「恩恵の自覚」の深みを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは生かされて生きる存在であることを胸に刻みます。
わたくしが前に進むことができたとしたらそれはわたくしを支えてくれた人がいたからです。
わたくしが多くを獲得できたとしたらそれはわたくしを助けてくれた人がいたからです。
わたくしが自ら成長することができたとしたらそれはわたくしを見守り導いてくれた存在があったからです。だからこそわたくしは一切の出会いに感謝できる心を育みます。
実るほどに頭を垂れる黄金の「稲穂」のごとく…。すべての出会いと出来事の豊かな意味を受けとめさせてください。そしてその一切を、大切に、大切に味わわせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「山の心」を育む祈り
この世界に生きる条件。すべてがとどまることなく移り変わり、崩壊に至る定を人は免れることができないということ。あらゆる事態が複雑な関わりゆえに、自分の思い通りにはならない定を抱くということ。
それらの定を負いながら生きる私たちは、誰一人例外なく、人生の中で、様々な苦難や試練にさらされます。突然の病や事故。人間関係の不和とあつれき。思いもかけない失敗や実績の低迷。期待はずれの結果や裏切り、約束の反故。互いを傷つけずにはおかない離反や別れ。予告なく襲いかかってくる人災や天災…。私たちの前で、無数の暗転の事態が今にも口を開けようとしています。だからこそ、私たちは苦難と試練を引き受ける「山の心」を求めるのです。「山の心」とは、いかなる苦難や試練にも揺らぐことがない、不動の心の菩提心。
「山」は不動の象徴です。長い時の流れの中にあって、どれほど厳しい風雪にも、どっしりと揺らぐことなく大地に身を構え続けてきた「山」。その「山」に倣って、何ごとが起ころうと揺らぐことなく、事態を受けとめたいと願うのです。すべてをじっと黙って受けとめてきた「山の心」を想ってください。「山の心」はただ動じない重い心なのではありません。一切の痛みと呼びかけを受けとめながら、決して重心を動かさない不動の心です。
(祈りの言葉)
わたくしに「山の心」を与えてください。わたくしは現実の重さをすべて受けとめたいのです。
呼びかけの深さをすべて知りたいのです。そのために、確かな重心を備えさせてください。
いかなる苦難や試練にも決して揺らぐことがない「山」のごとき安らぎの心を育ませてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
「月の心」を育む祈り
「月」は自ら光を発するものではなく、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。それゆえ、「月」は、太陽のような存在だと見なされてきました。しかし、それだけではありません。「月」の光の静かさ。その透明さ。その光は何とやさしく、そして神秘的に降り注いでいることでしょう。「月」は自らが発光しないことを知っており、自らを鏡のようにして太陽の光を私たちに送ってくれます。それは回向返照。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす回向の営みそのものです。
神秘の気配に満ちた「月」の光は、私たち一人ひとりを世界の不思議、人生の不思議に誘ってくれます。私たちの心は、普段は見えないもの、隠れた側面に自然に導かれます。見えるものから見えないところで他のために尽くす陰徳の歩みへと私たちを誘うものです。見えないところで他を支え、見えないところで全体のために尽くす歩みの尊さに私たちを導いてゆくのです。
「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることができる。陰徳の心の菩提心。
その「月の心」があなたの内に息づいていることを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、見えるものだけでなく、見えないものを想う者になります。形だけでなく、形を支える次元を求める者になります。現れだけでなく、隠れたところで心を尽くす者になります。
どうか、その歩みを支えてください。わたくしは、「月」のごとき隠徳の心を育みます。忍土の闇をひそやかに照らし続けることができますように。わたくしの内なる「月の心」をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より
劣等感に苛まれるとき
皆が自分より確かそうに見えるとき。自信のない自分を隠し切れないとき。他人と比較して、自分の足りなさや自分の不甲斐なさを嘆くとき。「あいつはいいよ、頭がいいから」、「あの人は何であんなに人から好かれるのかしら」、「私はどうせ駄目、何をやっても大したことはない」。ひがむ心、自己卑下する想いに苛まれて落ち込んでしまうことがあります。劣等感が頭をもたげてきて自分をへこませることがあります。けれども、よく考えてみましょう。劣等感だけを持つことはできません。劣等感と優越感とはコインの裏と表のようなものです。あなたはまずそのことをよく考えてください。劣等感を抱いている心は自分自身を見つめずにいつも、自分よりも優れていると思うものを見上げています。いつでも上を見ていたいのです。そしてだから「自分は駄目だ」と否定してしまうのです。でも同時に、自分より劣っていると思うものを気づかずに見下げているのではないでしょうか。劣等感とは実は自分自身に対する、そして他に対する「差別の心」なのです。劣等感のもとになっているのは比較する心。他人と比較することによってしか自分を確認できない心。比べることのできないものまで比べている心。でも、本当に、すべての優劣を決めることができるでしょうか。「水」と「空気」、「花」と「根」、「父」と「母」、「娘」と「息子」のどちらが優れていると言えるのでしょうか。すべてが比べられると考えるとき、あなたは、あなたの中にある唯一のいのちに目をつぶり、他の中にある唯一のいのちを殺してしまいます。なぜ、あるがままの世界は、多様なのでしょう。なぜ、人々は様々なのでしょう。それは、どれもこれもが、唯一のものとして取り替えることのできないものとしてはじめから、認められ愛されているからです。「愛は多様をよろこぶ」という事実を、眼を開いて見てください。いのちの次元から見れば、すべてはかけがえのないもの比べることのできない尊さを抱いています。それが真実なのです。このひととき、比較することを忘れてください。このひととき、自他の中に息づくいのちのことだけを想ってください。その唯一のいのちに基づいて、あなたが、あなたの可能性と責任を果たしてゆくために。現実的に、事態に応える力を身につけるためには、失敗を繰り返しても、鍛錬を持続させることが不可欠です。つまずきも失敗も、あって当然の過程なのです。転ぶことを過度に恐れることなく、そのつまずきや失敗自体が前進であることを信じて、あなた自身を見守ってください。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より
身理(おさ)まりて国乱るるものを聞かず
貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。
「君主たる者はなによりもまず人民の生活の安定を心掛けねばならない。人民を搾取して贅沢な生活に耽るのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体の方がまいってしまう。天下の安泰を願うなら、まず、己の姿勢を正しくする必要がある。いまだかつて、体はまっすぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞かない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、他でもない、その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望の対象は果てしなく広がり、それに対する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身が入らなくなり、人民を苦しみにおとしいれるだけだ。そのうえ、君主が道理に合わないことを一言でもいえば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもその事に思いを致し、極力、おのれの欲望をおさえるようにつとめている。」
諫議大夫の魏微が答えた。
「昔から、聖人とあがめられた君主は、いずれもそのことをみずから実践した人々であります。ですから理想的な政治を行うことができたのです。
かつて楚の荘王が賢人詹何(せんか)を招いて政治の要諦をたずねたところ、詹何は「まず君主が己の姿勢を正すことだ」と答えました。楚王が重ねて具体的な方策についてたずねました。それでも詹何は「君主が姿勢を正しくしているのに、国が乱れたということはいまだかつてありません。」と答えただけでした。陛下のおっしゃったことは詹何の申し述べたこのことばと、全く同じであります。」
【私の経営箴言】
経営の安定を願うなら、己の言動を正し、私欲を抑えることだ。
つもりちがい10カ条
1. 高いつもりで 低いのが「教養」
2. 低いつもりで 高いのが「気位」
3. 深いつもりで 浅いのが「知識」
4. 浅いつもりで 深いのが「欲望」
5. 厚いつもりで 薄いのが「人情」
6. 薄いつもりで 厚いのが「面皮」
7. 強いつもりで 弱いのが「根性」
8. 弱いつもりで 強いのが「自我」
9. 多いつもりで 少ないのが「分別」
10.少ないつもりで 多いのが「無駄」
疑いが生じるとき
信頼していた人を、信用してきた人たちを、信じ切れなくなるとき。表面では以前と変わらない様子をふりまきながら、疑い始めるとき。
「本当に信じてよいのだろうか」、「もしかしたら、だまされているのではないか」、「もしかしたら、見誤ってきたのではないか」心の奥では疑惑が頭をもたげ、ぐるぐると回り出す。人に対する不信の始まり。猜疑心の芽生え。すぐにも結論を出したい想いに駆られるかもしれません。
でも、急ぎ過ぎてはいけません。性急な断定は感情に流されてしまうだけです。どうしても必要な判断だけを下し、心の中では最終的な判断を待つことです。感情や思考から明らかな認識へ、うわさや憶測から事実へ、一度、心を移してください。
どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。自分の快苦、利害の判断と「信じること」とは次元の違うことです。もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならばそれは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。信じることは、全部を受けとめてゆくこと。眼を閉じてしまうことではありません。耳をふさいでしまうことではありません。眼を開き、耳を開いてどこまでも見届け、どこまでも聞き届けること。すべてを受けとめ、それに応えつつ最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。
信じるためには、深く深く受けとめなければなりません。良いところも、悪いところも、ありのままに見なければなりません。あるときには、じっと見守り、あるときには、ひたすらに関わり合うのです。そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
たとえその言動に「ノー」を示すときでも、存在そのものに対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。それが信じるということでしょう。
自分の快苦、利害の計算をひとまず脇に置いて、もう一度、その人を見てください。先入観と思い入れと、期待と恐れを突き抜けてゆく真実だけに忠実な出会いを念じるのです。雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いはボタンのかけ違いのような判断の誤りを誘う妄想になりやすいものです。
事実を見、事実を想って、疑いの肥大を断つことです。疑問は根本を肯定するために投げかけられるべきもの。否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、神の心につながってゆく清さがあるかどうかが鍵になります。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より