「大地の心」を育む祈り

「大地の心」とは、いかなるものでしょうか。
「大地」は豊かな恵みを生み出す母胎です。多様な生命を懐に抱え、育み、生かしています。そして、少しの搾取もなく、差別もなく、あらゆる生命を育んで、恵みと富を生産するものです。人がいかなる豊かさを産み出そうとも、「大地」の豊かさには遠く及びません。
無から有を生ずるがごとく、「大地」は繰り返し尽きることなく、恵みをもたらし続けるのです。「大地の心」とは、大地のごとく、あらゆる存在を育み、その可能性を開花させることができる、子を育てる「親の心」の菩提心です。「親の心」とは、自分のことを横に置いても、子を愛し育み、助け支えようとする心。人を見たらその可能性を想い、どうしたらそれを引き出せるのかと考えてしまう心。育み、引き出す願いを抱いた、あなたの内なる「大地」のことを想ってください。
(祈りの言葉)
いのちの営みの母胎、人間の営みを支える「大地」をわたくしは今日も踏みしめました。
この「大地」から生まれ、この「大地」に支えられてきたわたくしであることを思います。
その恩義に応えさせてください。
「大地」のごとき豊かな心を育みます。あらゆる存在の可能性を引き出すことができますように。
どうか、あらゆる存在が輝く「縁」としてわたくしをはたらかせてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「川の心」を育む祈り

「川の心」とはいかなる心でしょうか。「川」は一時としてとどまることなく流れ続け、一切のものを押し流し、様々な汚れを洗い流すものです。そして、流れることで、「川」は、自らも清浄であり続けます。弛みない「川」の流れは、私たちの心を洗い、想いを浄化させます。「川」の流れを見ているだけで、こだわりやとらわれを解きほぐし、そこから離れることができます。背負っている重荷を肩から下ろして、心を休めることができます。それはその重荷は決して固定的なものではなく、新しい時が来ることを教えてくれるからです。「川」の流れは、やがて訪れる希望の未来を示してくれるのです。「川の心」とは、一切のとらわれやこだわりを洗い流すことができる、清らかな心の菩提心です。怒り、謗り、妬み、恨み、僻み、傲慢、欺瞞、疑念、愚痴、怠惰、…。これら一切を洗い流し、自由な魂を導くもの。一時としてとどまるもののない、この諸行無常の世界に生きる私たちには「川の心」がもとより託されているのです。あなたの内なる「川」の浄化の力、変化の力を信じてください。
(祈りの言葉)
わたくしは川のごとき清らかな心を育みます。一切のとらわれやこだわりを洗い流すことができるように、まったく自由なわたくしをあらわしてください。
一から始めることができるように、透明になることができるように、わたくしに新たないのちを与えてください。新たな光を注いでください。

「月の心」を育む祈り

「月」は自ら光を発するものではなく、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。それゆえ、「月」は、太陽のような存在だと見なされてきました。しかし、それだけではありません。「月」の光の静かさ。その透明さ。その光は何とやさしく、そして神秘的に降り注いでいることでしょう。「月」は自らが発光しないことを知っており、自らを鏡のようにして太陽の光を私たちに送ってくれます。それは回向返照。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす回向の営みそのものです。
神秘の気配に満ちた「月」の光は、私たち一人ひとりを世界の不思議、人生の不思議に誘ってくれます。私たちの心は、普段は見えないもの、隠れた側面に自然に導かれます。見えるものから見えないところで他のために尽くす陰徳の歩みへと私たちを誘うものです。見えないところで他を支え、見えないところで全体のために尽くす歩みの尊さに私たちを導いてゆくのです。
「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることができる。陰徳の心の菩提心。
その「月の心」があなたの内に息づいていることを想ってください。
(祈りの言葉)
わたくしは、見えるものだけでなく、見えないものを想う者になります。形だけでなく、形を支える次元を求める者になります。現れだけでなく、隠れたところで心を尽くす者になります。
どうか、その歩みを支えてください。わたくしは、「月」のごとき隠徳の心を育みます。忍土の闇をひそやかに照らし続けることができますように。わたくしの内なる「月の心」をあらわしてください。
「祈りの道(高橋佳子著)」より

劣等感に苛まれるとき

皆が自分より確かそうに見えるとき。自信のない自分を隠し切れないとき。他人と比較して、自分の足りなさや自分の不甲斐なさを嘆くとき。「あいつはいいよ、頭がいいから」、「あの人は何であんなに人から好かれるのかしら」、「私はどうせ駄目、何をやっても大したことはない」。ひがむ心、自己卑下する想いに苛まれて落ち込んでしまうことがあります。劣等感が頭をもたげてきて自分をへこませることがあります。けれども、よく考えてみましょう。劣等感だけを持つことはできません。劣等感と優越感とはコインの裏と表のようなものです。あなたはまずそのことをよく考えてください。劣等感を抱いている心は自分自身を見つめずにいつも、自分よりも優れていると思うものを見上げています。いつでも上を見ていたいのです。そしてだから「自分は駄目だ」と否定してしまうのです。でも同時に、自分より劣っていると思うものを気づかずに見下げているのではないでしょうか。劣等感とは実は自分自身に対する、そして他に対する「差別の心」なのです。劣等感のもとになっているのは比較する心。他人と比較することによってしか自分を確認できない心。比べることのできないものまで比べている心。でも、本当に、すべての優劣を決めることができるでしょうか。「水」と「空気」、「花」と「根」、「父」と「母」、「娘」と「息子」のどちらが優れていると言えるのでしょうか。すべてが比べられると考えるとき、あなたは、あなたの中にある唯一のいのちに目をつぶり、他の中にある唯一のいのちを殺してしまいます。なぜ、あるがままの世界は、多様なのでしょう。なぜ、人々は様々なのでしょう。それは、どれもこれもが、唯一のものとして取り替えることのできないものとしてはじめから、認められ愛されているからです。「愛は多様をよろこぶ」という事実を、眼を開いて見てください。いのちの次元から見れば、すべてはかけがえのないもの比べることのできない尊さを抱いています。それが真実なのです。このひととき、比較することを忘れてください。このひととき、自他の中に息づくいのちのことだけを想ってください。その唯一のいのちに基づいて、あなたが、あなたの可能性と責任を果たしてゆくために。現実的に、事態に応える力を身につけるためには、失敗を繰り返しても、鍛錬を持続させることが不可欠です。つまずきも失敗も、あって当然の過程なのです。転ぶことを過度に恐れることなく、そのつまずきや失敗自体が前進であることを信じて、あなた自身を見守ってください。

新・祈りのみち(高橋佳子著)より

疑いが生じるとき

信頼していた人を、信用してきた人たちを、信じ切れなくなるとき。表面では以前と変わらない様子をふりまきながら、疑い始めるとき。
「本当に信じてよいのだろうか」、「もしかしたら、だまされているのではないか」、「もしかしたら、見誤ってきたのではないか」心の奥では疑惑が頭をもたげ、ぐるぐると回り出す。人に対する不信の始まり。猜疑心の芽生え。すぐにも結論を出したい想いに駆られるかもしれません。
でも、急ぎ過ぎてはいけません。性急な断定は感情に流されてしまうだけです。どうしても必要な判断だけを下し、心の中では最終的な判断を待つことです。感情や思考から明らかな認識へ、うわさや憶測から事実へ、一度、心を移してください。
どのような人にあなたは心を開いてきたのでしょうか。いい人。信じられる人。自分のことを大切にしてくれる人。あなたは、その時その場の自分の利害だけで、人物をふるい分けてこなかったでしょうか。自分の快苦、利害の判断と「信じること」とは次元の違うことです。もしあなたの迷いに利害が色濃く絡んでいるならばそれは信じるかどうかより、利害の問題として考えるべきかもしれません。信じることは、全部を受けとめてゆくこと。眼を閉じてしまうことではありません。耳をふさいでしまうことではありません。眼を開き、耳を開いてどこまでも見届け、どこまでも聞き届けること。すべてを受けとめ、それに応えつつ最後に決して壊れることのない絆に心を託すこと、それが信じることなのです。
信じるためには、深く深く受けとめなければなりません。良いところも、悪いところも、ありのままに見なければなりません。あるときには、じっと見守り、あるときには、ひたすらに関わり合うのです。そしてときには、忠告し叱咤激励し、腹蔵なくぶつかり合うこと。
たとえその言動に「ノー」を示すときでも、存在そのものに対しては「イエス」という、神の心につながる絶対肯定の姿勢で臨むこと。それが信じるということでしょう。
自分の快苦、利害の計算をひとまず脇に置いて、もう一度、その人を見てください。先入観と思い入れと、期待と恐れを突き抜けてゆく真実だけに忠実な出会いを念じるのです。雪ダルマのようにふくらんでゆく疑いはボタンのかけ違いのような判断の誤りを誘う妄想になりやすいものです。
事実を見、事実を想って、疑いの肥大を断つことです。疑問は根本を肯定するために投げかけられるべきもの。否定のための疑念になるとき、人は黒い想念に巻き込まれます。そこに、愛と慈しみの想いがあるかどうか、神の心につながってゆく清さがあるかどうかが鍵になります。
新・祈りのみち(高橋佳子著)より

「火の心」を育む祈り

「火の心」とは、本当に大切なものに一心にまごころを尽くす、熱き心の菩提心。
心の中に燃える「火」を想い描いてください。一時(いっとき)としてとどまることなく変化し動きながら燃え続けるように見えて「火」は、「今」というただ一点をいのちとしています。今にすべてをかけるように、熱く明るく燃える「火」は「今」を燃やし尽くす力。
「今」という一回生起の時をこれ以上はないというくらいの熱をもって完全に燃焼させることができるのが「火の心」です。
猶予の感覚が少しでも混じれば、それは叶いません。依存の想いに少しでも傾けばいのちを捉えることはできません。最も大切な一事に、最も大切にすべき一点にすべてをかけて集中することを想ってください。

(祈りの言葉)
わたくしは「火」のごとき熱き心を育みます。現在にいのちを込めて人生の仕事を果たすことができるようにどうぞわたくしを導いてください。大切な一点のために中心をなす一事のために一切を焼き尽くすほどの熱を自らの内に保ち続けることができますように.
「祈りの道(高橋佳子著)」より

「空の心」を育む祈り

「空の心」とは、何ごとにもとらわれず、無心に生きる自由な心の菩提心。
「空」を見上げてください。それが叶わないなら、心の中に「空」を想ってください。
「空」は限りない広がりを抱くものです。
どこまでも妨げるものがなく、どこまでも高く、すべてを超えて広がりゆくもの。
現在の中に生きている私たちは心をどこかにとどめ何かに固着させがちです。
区分けし、限定して考えることを常としています。
上手く区切ることのできる人が優れた能力の持ち主であると考えられたりします。
左と右に分け上と下を分ける力世界の一画に自分の場所を区切ることのできる力を人間の力量として見るということです。
人の心もその区分けに翻弄され、こだわります。
こだわっているとき、往々にして、その外に広がっている世界は見えなくなります。
ただその区分けにとらわれ、人生の一大事と思ってしまうのです。
「空」は、そんな人間の世界のすべてを超えて広がってゆきます。
区分けに必死な人間の意識の底を抜いてそれを超える広がりを私たちに見せてくれるのです。
その広がりが本当のいのちを呼びかけているのです。
どこまでも自由無碍に広がる「空」に、いつも、あなたの心を重ね合わせてください。

(祈りの言葉)
自らがつくり出しているこだわりと差別に訣別するために「空」の広がりを感じさせてください。
「空」の自由さを味わわせてください。
何の障害もなく澄みきった大空にわたくしを托身させてください。
わたくしは大空をはばたくことを願っています。
おおらかで自由なわたくし自身を取り戻したいのです。
わたくしは、「空」のごとき自由無碍な心を育みます。
何ごとにもとらわれず、無心に生きることができるようにわたくしを導いてください。

「祈りのみち」(高橋佳子著)より

先世の結縁

或(あるい)は一(いっ)国(こく)に生(うま)れ、或(あるい)は一郡(いちぐん)に住(す)み、或(あるい)は一県(いちけん)に処(お)り、或(あるい)は一村(いっそん)に処(お)り、一樹(いちじゅ)の下(もと)に宿(やど)り、一河(いちが)の流(ながれ)を汲(く)み、一夜(いちや)の同宿(どうしゅく)、一日(いちにち)の夫婦(ふうふ)、一所(いっしょ)の聴聞(ちょうもん)、暫時(ざんじ)の同道(どうどう)、半時(はんじ)の戯笑(げしょう)、一言(いちげん)の会釈(えしゃく)、一坐(いちざ)の飲酒(おんしゅ)、同杯(どうはい)同酒(どうしゅ)、
一時(いちじ)の同車(どうしゃ)、同畳同坐(どうじょうどうざ)、同牀一臥(どうしょういちが)、軽重(けいちょう)異(ことな)るあるも、親疏(しんそ)別(べつ)有(あ)るも、皆(みな)是(これ)れ先世(せんぜ)の結縁(けちえん)なり。
(聖徳太子「説法(せっぽう)明眼論(みょうげんろん)」)
(訳)
ある国に生まれ、ある地方に住み、ある県に住み、ある村に住み、同じ木の下での雨宿り、同じ河の水を使い、一夜の同宿、一日だけの夫婦関係、同じところで話を聴き、ほんの短い同伴、ちょっとした微笑み、何気ないご挨拶、宴席での飲酒、たまたまの同車、同席、同宿、これらのことは関係が深い、薄い、親しい、疎いと様々であるが、全て、生まれる前の前世の因縁が関係しているのです。