孝経 開宗明義章

身體髪膚、之れを父母に受く、敢て毀傷せざるは、孝の始なり。 身を立て道を行なひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕す、孝の終なり。 夫れ孝は、親に事ふるに始まり、君に事ふるに中し、身を立つるに終る。 大雅に云ふ、 爾の祖を念ふ無からんや、厥の徳を聿べ修む、と

(意訳)そもそも我が身体、髪、皮膚、ありとあらゆるものは、父母より受けたるものである。 これを一時の惑いに失うこと無く、その生を尽くして全うするは、孝の始めである。 身を修めて道を行ない、名を後世に揚げて敬せらるに至る、このようにして父母を顕し先祖を讃えるに至らしめるは、孝の成就である。 孝というものは親に事えるに始まり、君に事えて全うし、身を立てて終える。 故に詩経の大雅にはこう詠われている。 汝の祖先の道を尊ぶべし、その徳を継ぎて修め帰す、と。

『孝経』は、中国の経書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動をしるしたという。十三経のひとつ。孝の大体を述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を細説し、そして孝道の用を説く。『孝経』の作者についてはいくつかの説がある。伝統的には孔子本人の作とされた。これは孔子を語り手としている以上当然ともいえる。曽子を作者とする説も古くからある。冒頭の開宗明義章の「身体髪膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。」は有名

白骨の章 (蓮如)

それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきことは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて、誰か百年の形体をたもつべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりもしげしと言えり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬる時は、六親眷属集まりて、嘆き悲しめどもさらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。